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推しは 推せるときに 推すぞ

「推しは 推せるときに 推せ」っていう言葉。
何かや誰かのファンをしている方にはよく聞く言葉だと思うのだけれど、あれって、ものすごく真理だと思っていて。

先月から足を怪我してしまい、入院したり手術したりしていた我が家のわんこが、ようやく少しずつ平常の生活を取り戻しつつある。まだまだスタスタとは歩けないけれど、すこーしずつ、自分のペースで歩き始めた。

手術をして入院していた彼がいない1週間は、とても家の中が寂しかった。彼が将来死んでしまったら、これが永遠になるんだなぁとも思った。幸い彼は元気になりつつあるけれど、前のようにはまだ歩けない。散歩も行けない。どれくらい回復してくれるかはわからないけれど、足がぴんぴん元気なときに、大草原で走ったりさせてあげたかったなぁなんて思ったりもする。

みんな何かしらそういう経験をしてきたと思うけれど、私も「推し」が「推せなくなる」という寂しい経験を何度もしてきた。中学生のころファンクラブにも入っていた成宮寛貴さんは、あまりにも突然、芸能界を引退してしまった。小さい頃から憧れの人だった安室奈美恵さんも、昨年芸能界を引退した。「突然」ではなくて、心の準備をさせてくれた安室さんにはとても感謝している。最後まで、思う存分「推せた」と思う。

高校生くらいの頃大好きだったKAT-TUNも、それぞれ事情や理由は異なるものだったけれど、メンバーが減っていった。それぞれの今の活動を応援することはできるけれど、一番最初に大好きになった6人でのパフォーマンスは、見れなくなってしまった。

当時は子供だったから、いろんなアイドルやアーティストが引退・脱退・解散するなどのニュースを見聞きしたときには、「なんで人気があるのにやめちゃうんだろう」とか、逆に「こんなに人気があっても、やめたければ、個人の意思でやめれるんだ」とも思ったりした。年月が経って大人になって、人間というのはそんな簡単な生き物ではない、ということがわかった。テレビの向こう側で、ステージの上で見える生き物は、みんな人間だから、感情がある。変化もある。お金が儲かるからとか、人気があるからとか、そんな理由だけじゃ片づけられないことも、やりきれない気持ちも、知らないところでたくさんあるんだろうなぁ、と、今はとても思う。

応援する側にも、変化がある。今年コンサートに行ったグループの、来年のコンサートに自分が行くかどうかなんて、わからない。今は行く気満々であったとしても、だ。出る側と、応援する側の結びつきって、とても流動的で。奇跡的な出会いのような気さえする。

だからこそ、「推しは 推せるときに 推せ」なのだと思う。
それは向こう側もそうだし、応援する側である私たちの変化も含めて。
「推しは 推せるときに 推す」ぞ。

Sae

「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。