見出し画像

虫愛づる姫君

通常、女の子はリカちゃん人形とかシルバニアファミリーなどに我を忘れるものですが、私が幼少の頃、我を忘れていたのはお人形さん遊びではなく、カブトムシやセミやチョウやトンボやカマキリなどの虫捕りでした。

鳥肌実先生いうところの「昆虫採集命がけ」です。

あの頃、葛飾柴又帝釈天には夏になると無数のセミが境内の松の木に止まり、妍をきそうようにあちこちでジワジワと鳴いていました。
そのほとんどは人の手の届かない高所をとっていたのですが、中にはバカなセミもいて、油断して低所にいたため当時まだ2歳だった私にあえなく捕まり、なんでも口に入れるという幼児の犠牲となってセミも親も大騒ぎになったりしました。
そうでなくても私は当時からアリのたかったかっぱえびせんを拾って口に放り込むような子供だったので、親も私の扱いには相当苦労したようです。

当時の私の家は帝釈天近くのちいさな木造二間風呂なしの借家で、庭はジメジメしてゼニゴケがビッシリ生え、私のような虫好きにとってはたまらない環境でした。
今でも庭先に転がっている大きな石をゴロリとどけると、その下にいたムカデやらダンゴムシやらがハッと驚き総員撤退ーと叫びながら全力で逃げていくのを見る昂揚感はよく覚えています。あの瞬間を見るのは子供の私にとって最上の喜びでした。

そんな風でしたから女の子のお友達などできるわけもなく、代わりに犠牲になったのはかわいそうな2つ下の私の妹でした。
子供の頭というのは実にやわらかく幼児教育とは恐ろしいもので、こんな姉を持ったせいで哀れ妹は本来ならばリカちゃん人形やシルバニアファミリーで埋め尽くされるはずだった少女時代を、セミだのモンシロチョウだのウシガエルのオタマジャクシだのに染め上げられるはめとなったのです。

そうして5歳までには陸・海・空のすべてを制覇した私たち姉妹は、今度は狩猟採集のみならずさまざまな応用を始めました。チョウやトンボを虫カゴいっぱい捕まえて家の中で放流したり、カレースプーンほどもあるウシガエルのオタマジャクシをバケツ一杯とってきて、これ食べられるって本で読んだから調理してくれと親に迫るようになりました。

そうした遊びは例外なくエスカレートするもので、最初のうちは近所の池でライギョを捕獲し、アメリカザリガニと同じ水槽にいれてどうなるかを観察したりしていたのですが、そのうち私は人体実験を試みるようになりました。

父を会社で踊らせるようになったのです。

もう半世紀近くも前のことですし父もすでに他界してますからこの場で白状いたしますが、父が朝履くパンツの中にときおりカマキリやアシナガバチを仕込んでいたのは私です。
当時は庭で洗濯物を干していたので父も母もその時に入り込んだのだと思っていたようですが、あんな大きなものがそうそう都合よくパンツの中に入るわけはありません。
ダンスの心得のない父が会社や日曜日の庭先でパンツに仕込まれた蜂やカマキリに噛まれて踊り狂う姿を見て、私は人間追い込まれればなんでもやるものだ、と子供心に感心したものです。

ところが因果応報というのでしょうか、そんな私にもそれなりに天罰が下される日がやってきました。

あれは私たち一家が柴又から千葉の野田に引っ越してすぐのことでした。たしか私が小学2年生のときだったと記憶しています。当時の野田は公園に野ウサギが出没するような田舎で、当然、森には昆虫がたくさんいましたし、森に入らずとも朝方の自動販売機にはカブトムシやらクワガタやらが張りついていて捕り放題でした。

なかでも私を魅了したのはカマキリの卵でした。冬場の森には葉の落ちた枝のあちこちにカマキリが卵を産むのですが、それはさわるとフワフワしたスポンジ状の茶色い塊で、その触感が気に入った私はそれをビニール袋いっぱい集め、学習机の引き出しに入れたきりそのまま忘れてしまいました。

惨劇は翌年の春、ある晴れた日の午後に起こりました。
その日、学校から帰ると子供部屋がカマキリであふれ返っていました。カマキリってさみだれ式に孵るんじゃなく、いっせーの、でタイミング合わせて同じ日に孵るんですね。ついでにいうとカマキリって卵から孵ってすぐカマキリのカタチしてるんですね。無数のカマキリの子供たちは部屋中を蹂躙したすえ、ついに母親の掃除機によって一網打尽にされました。

それにしてもかわいそうなのはまたしても私の妹です。というのは当時、私たちの子供部屋は姉妹共用で使っていて、しかも私より2つ下の彼女の下校時間は私よりも早かったのです。

#コラム #佐伯紅緒 #エッセイ #下町 #昆虫採集

最後まで読んでいただき、ありがとうございます! 見ていただくだけでも嬉しいですが、スキ、コメント励みになります。 ご購入、サポートいただければさらにもっと嬉しいです!