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[胸糞注意] 拝啓ぺルリ殿 第2章 Gross Horrible Quisling

前略、ぺルリ殿が、その名を轟かした時代からは英語も変化しました。だから、私が教えてあげますね!今日は、「GHQ」です。「Gross」は「気持ち悪い」、「Horrible」は「無礼な、ひどく不快な」、「Quisling」は「裏切者」です。※クイズリングは人名。ノルウェーの軍人。敵の占領軍に協力したことで、不名誉な名詞になりました。

ウィキペディアから得た情報がほとんどなので、フェイクであってほしいが、誰かの空想だったとしても、こんなこと考える奴がいるなんておぞまし過ぎる。言論を通り越して空想にまで口を出したらキリがないし、空想は自由だが、真実だったとしたら、自由や平等を穿き違えたバスタードの陰謀は阻止しないとね。

両翼を持つ愚民

先に言っておきますが、私はただの高卒の愚民であります。みなさん、片方の翼しか持てないようですが、私は、きちんと両翼を持っていますので、自由に飛ぶことが出来ます。お前らみんな、掘らなくてもGrossでHorribleなので、掘ったら最後、胸糞悪くなるだけだとわかりつつ、見過ごすこともできないので、ここに記す。てか、化け物だらけで笑えない。

今、ちょっと何かが降りてきたんだけどw、ペリ公、もし間違ってたら謝るけど、もしかして君たち、劣等感の塊なんじゃない?「屈辱を味合わせる。」とか「思い知らせる。」とか、ただのヤベぇ奴だよ。江戸の発展と国民の賢さにビビったっしょ?「俺たちの方が優れてて、先進なはずなのにぃ。」

ペリ公が1851年に海軍長官に提出した「日本遠征計画」で(日本占領計画と言った方が正しい。)「・日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。・中国人に対したのと同様に、日本人に対しても、恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう。・オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。」などと、ほざいたそうですね。

近代とか文明とかいう言葉が好きみたいですが、何を進んでいるとするか、どういうことを優れてるとするかだけの問題なので、当時の日本は独自の進んだ文明が築かれていたし、言い方を変えれば現代よりも進んでいたと私は思う。

あなた方の計画は、あなたの見立て通り成功し現在に至ります。私は、歴史を学ばない劣等生だったので、政治や歴史に興味が出てきた今の私には、とても新鮮に感じられます。

さて、WW2終戦後日本でその名を轟かしたGHQのマッカーサー君のことです。ほんと、優秀な方たちばかりで感心しきりです。自分の悪行を正当化するための強引な印象操作が、功を奏したと思っていたかもしれませんが、民衆の間では「マッカーサー将軍の命により、」という冗談が流行っていたそうですよ。

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ゆるゆるベルト君

マッカーサー君の紹介の前に、第32代米大統領フランクリン・ルーズベルト(民主党)レイシストとして名高いゆるゆるベルト君の名言集をお届け。しっかり、ベルトを締めたまえ。1950年頃オランダのハールレムから(ニューヨークのハーレム地区の由来)ニューヨークに(当時はニューアムステルダム)移住したルーズベルトから続く一族の一員。(第26代セオドア・ルーズベルトは遠縁の従兄)

母サラはフランス系プロテスタントで、実家は阿片戦争(1840~1842)の頃から、清を相手に阿片を含む貿易を手広く行い財を成していた。

1911年メイソンリーになる。1939年9月、ヨーロッパでWW2勃発。英寄りだが、武器の援助以外は基本的に介入しない政策をとるが、英、清から支援と参戦を要望される。就任前の選挙中に「戦争はしない」という公約を掲げており、WW1で疲れていた米国民からの支持を得ていたため、日本との開戦は、公約違反だと言う批判もあった。

母方の祖父の影響で、幼いころから中国文化に愛着を持ち、同情的、友好的な考えを持つ親華であることを明言していた。

博物館の研究者に「日本人の頭蓋骨は我々の物より約2000年発達が遅れている。」などという、当時のアングロ特有のトンでも理論を紹介。「人種交配によって文明が進歩する。」などと、精神面の進歩が全くないことを露呈する発言をし、「インド系、ユーラシア系、とアジア人種。欧州人とアジア人を交配させるべきだ。ただし、日本人は除外する。」と語った。日本人を除外してくれてありがたかったが、「日本が敗北した後は、多人種との結婚をあらゆる手段を用いて奨励すべきである。」などと、何目線から言ってるのか良くわからん余計なお世話発言も聞き逃せない。

1939年にレオ・シラードとアルベルト・アインシュタインからの書簡を契機に、原子爆弾の開発計画であるマンハッタン計画を推進。1941年にイギリスからユダヤ系科学者オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスの記した核エネルギーの兵器応用のアイディアを伝えられ、核兵器実現の可能性が高まると、1942年6月、ルーズベルトは国家プロジェクトとしての研究着手を決意する。

1941年12月。ブラジル、メキシコ、ペルーなどの中南米諸国において、非虎ーのジューイッシュ強制収容所を参考にした日系人強制収容政策を推し進め、自由を束縛し、財産を放棄させた。

1944年10月14日、ルーズベルトは日本の降伏を早めるために駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンを介してスターリンに対日参戦を提案した。同12月14日にスターリンは武器の提供と南樺太と千島列島の領有を要求、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄を促した。

1945年2月4日から11日にかけて、ソビエト連邦クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによるヤルタ会談が開かれ、大戦後の国際秩序や発足が議論されていた国際連合についての協議が行われた。また、日本の領土分割などについても話され、ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。

この会期中2月9日に開かれた英米軍事会議においてルーズベルトは、チャーチルから「戦争が1年でも半年でも短縮されるならば意味がある。」としてドイツ、日本との戦争終結に際しての降伏条件をいくらか緩和するように提言された。それに対しルーズベルトは「そうした考えは、世界情勢に無知であり、今なお自国に有利な譲歩を得られると考える日本人に、そのような条件緩和を行うことが有効だとは思えない。」と一蹴し、あくまでも無条件降伏を要求し続けるとの姿勢を固持した。

ドイツ降伏後も当分の継続が予想された対日戦を、降伏条件を緩和することなしに早期に終結させるため、スターリンに対し千島列島、南樺太のソ連への割譲を条件にドイツ降伏後3ヶ月以内の対日参戦を要求した。 後にソ連が満州に侵攻する。

1945年4月12日の昼食前に、原子爆弾を日本にブチ落とすのを見れないままに志なかばで脳卒中で死去。死因は高血圧性脳出血。呪いによって死んだ説あり。

鬼畜米英言い得て妙

ユルユルベルトが死んでくれて良くなると思いきや、輪をかけた化け物が繰り上がってきた。副大統領だった最強のレイシストが第33代米大統領に就任する。

1909年メイソンリーになる。少なくとも、1919年以降、「苦・苦羅屑・苦乱」の支援を得るため団体に加入。「苦・苦・苦」のカソリックとジューイッシュの雇用禁止に同意できず、すぐに脱退する。外交経験は全くなく、就任後、原子爆弾の開発状況を報告される。

1945年7月12日。勝てないと判断した大日本帝国政府は、ソ連にいる特命全権大使宛てに、ソ連に和平の仲介を依頼する特使を派遣する予定であることを打電。その暗号電報は即座に解読され、ハリ公に知らされた。ハリ公はその時点で大日本帝国政府が和平の動きに出た事を知っていた。

米陸軍空軍参謀本部は、首脳会談の前に合同会議を持ち「ソ連が参戦する予定であること、天皇制存続を認めれば日本の降伏は今日でもありうる。日本は既に壊滅状態で原爆を使う必要は無く、警告すれば十分。」と結論を出す。しかしハリ公は、その結論を信用しなかった。

1945年7月に国務長官になったバーンズは、原爆の力を使えば、ソ連に加勢してもらわなくても本土上陸作戦の前に日本を降伏させることができると考えた。もしそうなれば、戦後の世界でソ連の力を抑えることもできるし、ベストの結果となろう。しかしこのタイミングで日本の降伏条件を緩和した場合、日本が降伏してしまい、原爆投下の機会を逸することをバーンズは恐れた。

そこで「降伏条件の緩和で日本の降伏を促進する」という路線については「原爆投下までは棚上げすべし」とトルーマンに説き、大統領を味方につけることに成功した。こうしてトルーマン政権は「降伏条件を緩和することで、日本の降伏を促進すべし」と説くグルーやスティムソンの派と、「原爆を投下し、その威力を示すまでは、降伏条件を緩和すべきでない」とするバーンズとトルーマンの派とに分裂することになった。

スティムソン陸軍長官は代表団員から外されていたにも関わらず、別便のマルセイユ行きの陸軍輸送船に乗り、ポツダムに向かった。ポツダムでトルーマンに再会したスティムソンは、天皇制の存置を保証する一文を復活させるように説得を試みた。しかしトルーマンは頑として応じず、スティムソンに対して「気に入らなければ荷物をまとめて帰ったらいい」と言い放った。

7月16日のトリニティー実験(世界初の核実験)の8日後、スティムソンが訪れ、京都を原爆投下の目標から外すよう言ってきた。かつて京都を2度訪れたことがあるスティムソンは、原爆を投下すれば数多くの一般市民が犠牲になること、そして文化的・宗教的重要性から日本人の恨みを買い、戦後政策に影響を及ぼしかねないことを知っていた。トルーマンの7月25日の日記には「原爆の投下場所は軍事基地のみに限る」と書いてあった。

原爆の日本への使用については、後に共和党の大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の陸軍・海軍の将軍たち(マッカーサーも含む。)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し、「アメリカが世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを私は見たくない」(1963年の回想録)と何度も激しく抗議していた。トルーマン自身は生涯原爆投下を正当化し、アメリカでは未だに「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」という評価が定着している。

第31代大統領ハーバート・フーバーは、日本への原爆投下は「トルーマン大統領が人道に反して、日本に対して原爆を投下するように命じたことは、アメリカの政治家の質を疑わせるものである。日本は繰り返し和平を求める意向を示していた。これはアメリカの歴史において未曾有の残虐行為だった。アメリカ国民の良心を永遠に責むものである」と批判している。

第34代大統領アイゼンハワーが原爆投下に反対した理由は『第一は、日本は降伏する準備ができていたので、あんな恐ろしい兵器で攻撃する必要がなかった。第二に、アメリカを原爆の最初の使用国にしたくなかったからだ』という理由である。大統領任期中の1953年に、自身の政権下で被爆地広島に原子力発電所を造る案が浮上した際に「原爆を投下したことへの罪悪感を示すことになる」という理由で反対している。

大統領主席補佐官で海軍提督だったウィリアム・リーヒは、天皇の地位保全さえ認めれば日本は降伏する用意がある事、東郷茂徳が採った日本がソ連を仲介者とする和平工作を依頼していた事を意図的に無視したことを批判しており、「アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女性・子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない」と述べている。またリーヒはトルーマンに対して無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきでは無いと意見していた。

森林学者のフロイド・シュモーは原爆投下のニュースを聴きナチス・ドイツのユダヤ人虐殺にも匹敵する蛮行であると怒り悲しみ、トルーマンに抗議電報を打った。









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