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諦めるということ

過労で亡くなってしまった人のことを最近、よく考えた。

寝不足は人を追い込み、判断力を、前向きな気持ちを失わせる。
体調不良は、そのまま精神力の低下につながる。
でもなによりも人を追い込むのは、自分がやらなければいけないと思っていることを達成できない、という絶望感と自己否定感だと思う。

「自分が何かをやらなければいけない」と思っているとき、人は自分が理想論を語っているとは考えない。掲げているタスクは、あくまでも今の自分がこなさなければいけないことだと思っている。だからそれをできない自分はダメで、甘くて、どうにかしなくてはいけないと感じる。

私は今まで(多くのことであまり)諦めるということをしなかった。
諦めないほうが、絶え間ない努力をして、色んなものを手に入れる方が幸せだと思っていた。

でもこの間、下の子が長い入院から帰って来た。心臓の大きな手術をして、そのあと再入院して、計1ヶ月半病院にいた。私たちはほぼ毎日片道一時間かけてその大学病院に通い、仕事をし、最低限の家事をし、上の子の世話をした。地に足の着かない1ヶ月半だった。その間、たくさんのことに囲まれて、私は自分の時間と体力と精神力をどのように配分するのが自分にとって、そして私と夫がいなければ死んでしまうであろう小さな子どもたちにとって幸せか、ということについて常に考えていた。

私は研究者であり教員であり、子どもの親であり、主体的生活者である。仕事も育児も家事も、全部生きるために必要なことで、すべて大事なことだ(そしてどれもみんな好きだ)。でも全部頑張るのは物理的に無理だった。どうにかできたとしても、余裕のない自分が幸せとも思えなかった。

私が諦めたのは、今回の若手研究(科研費)に応募することというたったひとつのことだ。でも応募しないという決断するのに、本当に信じられないが1ヶ月近くかかった。迷いながら、申請書は9割方完成させてしまった。自分の満足いく出来とは言えないが、あと少し手を入れてとりあえず出してみる、という選択肢もないわけではない。でもそれを手放すことは、自分にとって本当に大きな決断だった。

目の前にあるチャンスはすべて手に入れないといけない、出来る限りのことをしなくてはいけないと思い込んでいたから、学会発表や論文の投稿や非常勤の授業などはもちろん、一人のときと同じペースでプラスαの取りにいくタスクを勝手に自分に課しては、それを完璧にこなせないことに落ち込んだりストレスを溜めたりしていたのだった。

諦める方が幸せになることもある。

実はそれは諦めているのではなく、実は自分の周りを最適化しているにすぎないのだと思う。私みたいに生きて来た人間はおそらくたくさんいて、その人たちの多くは「諦めベタ」になってしまっている気がする。諦めるのは決して悪いことじゃない。人を幸せにするのは余裕であり、余裕は創造と優しさを生むから。



下の子は病院で大きくなってしまった。

太陽礼拝。

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