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「なにも変わらないことの、なにがいけないの?」

もともと野心やコンプレックスを原動力にしていないこともあるからか、時折立ち止まってしまうことがある。何度もいろんなインタビューで答えてきたように、わたしは心が強いほうではないし、何かを変えてやろうとかあいつを超えてやろうとか、そういう気持ちがほとんどない。いつでもゆるくてやわらかくてぬるいお湯のような気持ちで前に進んでいる。これは(自分で言うけれど)すごく素敵なことでもあるし、同時に弱さでもある、とわたしはいつも思っている。

心が元気な時には、そんな自分を誇りに思うことができる。ゆるい気持ちでも「誰かにちいさなはっぴーを届けたいな」というだけの欲求で、しっかり前に進めている自分を褒めてあげたいし、前に進むのに、好きな仕事をするのに、「覚悟」や「野心」なんてさほど必要ないんだよといえることで、誰かを勇気づけらているのではないか、と思う日もある。強い人だけが夢を叶えられるわけじゃないから。

でも、心に元気がなくなったときは、途端にわからなくなる。立ち止まって周りを見渡すと、わたしの進む方向を示してくれるものが何一つないことに気づくのだ。

今の仕事はすごく好きだし、毎日「恵まれているなぁ」という気持ちでいっぱいだけれど、それでも「今に満足していていいのかな」と急に不安になる。この流れの速いインターネットでは、いつでも「次のこと」を考えていなければいけない気がするし、少なくとも自分の中での目標がなければいけない、と半ば強迫観念のようなものが襲ってくるのだと思う。現状維持だって難しいはずだ、とか、やり過ごすってことも時には大事、とか、思うくせに、その日にちを重ねれば重ねるほど不安になってくる。

「わたしって、なにをしたいんだっけ」
「なにか目標がなくちゃいけないんじゃない…?」

さらに悪いことに、心が弱ってくると急に周りが気になるようになる。
「あのひとは、あんなに頑張っているのにわたしは」
「あのひとなら、こんな風に迷わないだろうにわたしは」

言葉にならないくらいの小さな気持ちが日に日に積み重なって、いつのまにか喉元まで迫ってきて。わたしはついに恋人に話していた。

「なにがしたいのか、わからなくなってる気がする」
「でも、なにか、停滞している感覚で」
「ここ最近、なにも変わっていないし」

ぽつぽつと言葉を選びながら、ゆっくりと。文章では自分の気持ちをしっかり見つめて表すことができるのに、口頭となるとめっきり弱い。特にダメな部分をさらけ出しているときや、不満を口にするときには、ものすごく下手な話し方になる。きっと、相手にどう聞こえるかが気になって、相手の心の動きに目がいって、それで自分の思いがそのまま出てこないのだ。

それでも彼はじっと聞いてくれた。寝転んで天井を見つめながら「そっか」とか「なるほど」とか言いながら。

そうして言葉が途切れて、時計のないわたしの家は暖房のゴォという小さな音だけが流れる。

こういうとき彼は、慎重に言葉を選んでいる。彼はいつもそうだ。適当なことを瞬発的に言ったりしない。その場の空気のバランスを整えるためだけに軽率なことを口走ったりしないし、お世辞でとりもとうともしない。気持ちを丁寧に整理して、言葉を探してから口にする。その丁寧さに気づかなかったころは「この人はなにも言いたいことがないのかもしれない」と先回りして「あ、変なこと話したかな」と勝手に考えてしまうこともあったけれど、今ではわかるようになった。

彼がじっくり言葉を探して言ったのは、こういうことだった。

「なにも変わらないことの、なにがいけないの?」

思いがけない問い。言葉に詰まる。

「いけないって、わけじゃないけど。でも、なにか変えなきゃいけない気がして」
「今、なにかやりたいことがあるの?」
「ない。なにかしたいという気持ちはあるけど、なにをしたいのかはわからない」
「そっか。やりたいことが出てきたら、すぐにやったらいいと思う。でも今ないなら、別になにかを変えなきゃ、前に進まなきゃって思わなくてもいいんじゃない?」

とっさに反発しようとするが、反発の言葉は思い当たらない。たしかに、なにかを変えなきゃいけない、なんてことはない。そう自分で思うことには勇気がいるけれど。

「さえりはさ、なにをやりたいかを考えるよりも、どう在りたいかを考える人だと思うんだよ。どんな生活をして、どんな自分でいたいかを考える人なんだよ。だから『なにをやりたい』とか無くていいよ。今までのように、どう在りたいかを考える。それでいいんじゃないかって、俺は思うけど」

その場では難しい顔をして「そんなわけない」というような顔をしていたと思うけれど、けれど頭の中では固まった思考がほぐれていく感覚があった。「なにをやりたいか」を考えなくていい。それはとても単純で、シンプルで、そして的確だった。

一人でなにかを考えていると、どうしても自分の偏った思考が悪い方へ悪い方へと導いていく。本当はそんなに難しいことではないのに、難しくてどうにもならない方へと自分でも気づかないうちにゆっくりゆっくりと。そうしてついには性格や生い立ちにまで言及する。「こんなわたしだから、もうダメなんだ」なんて。

未だ難しい顔している(そして多分なにかを考えているときのクセである口を尖らせている)わたしをみて、彼はぱっと明るい顔をして言う。

「あと”停滞”じゃなくて、”安定している”って考えることもできるでしょ? でも、実際。なにも変わっていないっていうけど、さえりは新しいことをたくさんして、頑張っていると思う」

涙が出た。本当は、そう言って欲しかったのだ、と彼のパジャマにたっぷりと涙のシミを作ってからやっと気づいた。

事実、新しい仕事は次々舞い込んでくる。毎日のように新しい仕事があって、やったことのない大きな仕事があって。それでもわたしはプロなので、不安そうにするわけにはいかない。「できるかな」なんて、弱音を吐くことはできない。今できる最大限のことをやればいいからと、自分に言い聞かせて、にっこり笑って前へ進む。きっと誰しもそんなふうに新しい事柄に向き合っているのだと思うけれど、それが重なり重なって、そのうち自分でも「このくらいはやれて当然なのだから」と思うようになっていたのだろう。

「やれて当然」の仕事が目の前に山ほどあれば、「やれたとしても嬉しくない」が積み重なる。これが当然なのだから。

そして徐々に「これくらいやれて当然だから、これ以上をやれなくちゃいけない」と思うようになる。この気持ちが「なにかを変えなくちゃ」の原因だった。

繰り返すが、今の仕事に不満はない。面白い仕事もあって、変わった経験もさせてもらえて、毎日のように誰かから感謝の言葉ももらう。幸せだ。きっと今わたしに必要なのは「焦り」ではなく、今をもっと味わって、今をもっと喜ぶことなんだろう。

放っておくと気づかないうちに頑張ってしまう。頑張ろうと思わなくてもいつのまにか頑張ってしまう。そして気づかないうちに心の元気が無くなっている。

どう在りたいかを考えれば答えは明確だ。

「だれかにはっぴーを届けられるひとで在りたい」

これだけがわかっていればいいのだ。あの話をしてから一週間。わたしの心はゆっくりとシンプルに戻っていく。






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