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4月30日、平成が終わった日

遅めの朝食は、母が焼いたホットケーキだった。だらだらと起き上がって食卓につくと、やさしいきつね色に焼きあがったホットケーキに、四隅のとろけたバターがまさに染み込んでいるところで、その特別さも相まって平成最後の日はそわそわと始まった。蜂蜜を何度も往復させながらたっぷりかけて、すでについていたテレビに耳を傾けると、彼らは「平成」を振り返っているところだった。いや、彼らどころじゃない。呆れるほど全ての番組が、平成を振り返っていた。

ガラケーやコギャルブーム、SNSの登場。大きな事件や災害。平成を振り返る番組は時に熱を帯び、時におごそかなムードで語りを進めた。わたしはなんともなしにそれを見つめ、特になにという感想も持てずにいた。仕方がない。だってわたしは平成しか知らないのだし。

テレビの向こう側の人たちは、浮かれている街の人たちは、一体平成にどんな気持ちを抱いているのか。わかりはしないが、インタビューに答える様子はなにやら楽しげで、「平成グッズ」を買うべく並んでいる人たちのお祭り根性も羨ましいほどに見事だった。

母はしきりに「わたしも、こういうブームに乗っかれるようになりたい。行事やイベントに乗っかったことがない。令和は、ブームに乗る人になりたい」と言い、父はそれを聞いていなかったのか、数分後に「こういうイベントに乗っかったことがないな。あんなに並びたくはないしなぁ」と言っていた。

17時、天皇陛下の最後の挨拶は、母が真剣な顔で見ているので一緒に見た。父も母もわたしも、その間は一言も言葉を発さなかった。天皇陛下の、芯のあるよく通る声は、(その立場からだけではなく)どこか人を黙らせる力のあるように思う。わたしには天皇陛下について何かを語るほどの知識はないが、多くの国民同様に「たくさん休んでほしい。遊びまくってほしい」などと月並みな感想を抱いていた。挨拶が終わると、いよいよ平成が終わってしまうのだという実感が今朝のバターのようなスピードで染み込んでくる。


平成生まれとして、結構ちやほやと扱われてきた自覚がある。平成2年生まれだったことも大きく影響して、「いよいよ平成世代が社会に出てきたか」という扱いをしてもらった。

「あ、わたし平成生まれです」

仕事の場でそう言えば、わあっと声があがる。「平成生まれなんですか!まいったなあ」。一体なににまいっているのかわからないが、よくそう言われた。父も母も姉も昭和生まれだから、家でも「平成生まれ」ということをよくひけらかした。

「お姉ちゃん、昭和なの? ふっるー! わたし、へいせーい」

小学生くらいの憎たらしい自分の顔が、ありありと浮かぶ。あの言葉を言われる立場になる日が来ると、当時は想像もできなかっただろう。いつでもわたしが新しく、いつでもわたしが若者だと思っていた。でも、この先は「令和生まれ」の子が出てくる。平成は、明日からもう、古いのだ。

「わたし、令和生まれです」。そう言われて「えぇ〜まいったなぁ」と、何かにまいらずにいられない日が必ず来るだろう。わたしは新しくわたしは若いと思いこむわたしのような人が、明日から生まれる。彼らのために、古くなったわたしは土台をつくろう。それが、新しい時代を“迎えた人たち”の役割なのだろうから。そこまで考えて、「これがバトンを渡すと言うことなのでしょうか」と、誰かに問うように思った。


ついにはじまった0時までのカウントダウンは、褪せた布団の上で座って聞いていた。やや興奮気味のアナウンサーの目は、濡れ濡れと光る。

「まもなく、0時を迎えます。渋谷の街は、賑わっています!」

3、2、1と年越しのようにカウントダウンがされ、ハッピーニューイヤーと言わんばかりに花火のような演出がテレビ上でなされる。それを、気の抜けた顔で見つめた。振り返ると、同じような顔が二つあった。

「あ、どうも」
「あ、おめでとう」

どう言うのが正しいか、父も母もわからず、なにやら照れながら挨拶をした。直前までLINEをしていた友人からも「これでいいんかわからんけど、令和おめでと〜」と連絡がきた。Twitterでは「令和でもよろしく〜。って年越しみたい」と言い合う人が見えた。

元号が変わる瞬間を、だれもがどう祝っていいのかわからずに、なんとなくめでたいような雰囲気で過ごしている。何が正解かわからずに、盛大とは言えない小ささで祝っているその様子は、かわいくて結構好きだ、と思った。


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