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トイ・ストーリー4の結末を受け入れきれなかった私の1ヶ月後

トイ・ストーリー4を観てきました。って本当は、1ヶ月以上も前に観てきたんですけどね、なんというか、消化しきれず1ヶ月以上も時間が経っちゃったんですよ。世間的にももうみんなで「トイ・ストーリー観た?どうだった?」って散々話をした後だと思うので、今更note書くのもな〜と思ったのですが、つい先日姉と「どうだった?」と話をしたら盛り上がりまくったので、やっぱり書いておくことにしました。

トイ・ストーリー4を観て、「言葉にしきれないモヤモヤ」を抱えた人や「ちょっと否定的な気持ち」「受け入れられない」と思った人にぜひ読んでほしいです。ちなみに爆発的なネタバレであり、観た人にしかわからないくらい細かいところはバンバン飛ばして書くので、「今から観る」と言う人はここでおかえりいただければと思います。


そもそも「トイ・ストーリーの続編あるん??やっぴー!楽しみやっぴっぴーーー!」っていうふわっふわな気持ちで観に行ったのが良くなかった。準備不足。覚悟が足りてなかった。もっと神妙な面持ちで、この先起こりうるすべての展開を予想してから観に行っていればたぶん耐えられたんだと思う。なんの疑いも持たず純真無垢なぴゅあぴゅあウキウキマインドで観に行ったらラストがショックすぎて、うそですよね?ウッディ、またまたぁ「やっぱり帰るよーん」っていうドッキリですか?今からボーを抱えて、走って車乗りますよね?車、行っちゃいますよ?え、もう、ボニーのために生きてくれないんですか。子供のそばにいないんですか。子供たちに遊んでもらうのが生きがいなあなたじゃなくなるんですか。自立しちゃうんですか。バズとの絆はどうなるんですか。「君はともだち」じゃないんですか。って。しかも結構あっさり、仲間と離れてしまう。あんなに(わたしたちにとって)何年も一緒の時間を過ごしてきたのに。

映画が終わって、一瞬真っ暗になってゆっくり明るくなるでしょ。それでもずっと「うそだよね?」「うそって言って」って唖然としてた。家に帰って、お風呂入って、布団入って、目を瞑る頃には、「もう1や2や3を同じ気持ちで観ることができない。『君はともだち』を純粋な気持ちで聞くことはできない」と思って、絶望したんです。

でもよく考えれば、ここまで「子供とおもちゃの絆」「子供がおもちゃから卒業する(アンディが大人になる)」とくれば、「おもちゃが子供から卒業する」っていう展開になるのは当然というか、考えてみれば、(やる意味のある続編を作るなら)それしかないんですよね。親離れしたあとは、子離れするっていうかね。うん、たしかに。わかってるんだけど、急すぎて受け入れられない。

ウッディが自分で新しい道を見つけたこと。ボニーのそばにいるということよりも、仲間と過ごすということよりも、自分で新しい世界へと飛び込んでいくこと。それを喜びたい気持ちもたしかにあるのに、なぜか簡単には受け入れられない。ショックで、寂しくて、でも怒るのも筋違いな気もしてしまう。

この気持ちを、どう表現すればいいのか?と考えていたんです、一ヶ月。
で、答えが出ました。


たぶん、これは、たとえるなら。

「女手一つで育ててくれていたお母さんが、自分が高校を卒業し大学進学のために上京する!というタイミングあたりで『再婚する』と言ったときの気持ち」に近いんじゃないかなって思ったんです。
(わかりやすさのために”お母さん”に統一して書きますが、”お父さん”でもいいです)(ていうか、親でもいいです)(あくまで想像でしかないので、リアリティを求めているというよりは、たとえ話と思ってもらえたらと思います)。

お母さんにも、お母さんの人生があることはわかっている。し、お母さんが幸せになってくれること、お母さんが自分の人生をあゆむことは素直に嬉しい。でもその反面、ちょっとだけ寂しさもある。なんというか「うん、お母さんわたしのために生きてるわけじゃないもんね。わかってる。当然わかってたんだけど、なんかそう思っちゃってた節があったかもしれない。幸せになってほしいのもホント。でもちょっと寂しい気持ちのもホント。って、まあわたしももう家出るからさ、そんな勝手なことは言うつもりはないんだけどね」っていうような、何かそういう気持ち。

完全に大人になっていれば(または精神が大人であれば)、「幸せになってよかった!」と素直な気持ちなのかもしれないし、もっと子供であれば何か思うところがあるのかもしれないけれど、そうではなく「頭では理解できるんだけど、気持ちがまだついていかないかも」っていう時期の、母の突然の告白。ちなみにこれは「再婚」じゃなくて「アフリカで暮らすと決めた」とかでもいいです。応援できない自分が悪いのか?自分が子供なのか?果たしてってなる、この感じ。

この感じ…に近い気持ちになったんじゃないかなって。


ウッディもずっと子供のために尽くしてくれたから、子供を一番に思ってくれたから、子供のため(=自分たちのため)に生きてくれてるんだと思い込んでしまってたけど、そうですよね、ウッディにもウッディの幸せがあるじゃんね。自分の道を選んで、そこで第二の人生を歩んでいく。そういうことだってあるよね。そっかーそっかー、あんま考えてなかった。ごめん、うんうん、ちょっとびっくりしちゃっただけ。これまでありがとう。自分の幸せを見つけたんだね。子供のそばにいなくても子供を想う新しい道を自分で見つけたんだね。幸せになってね。でも…いや……なんでもない……。この言葉は言わずに取っておく。そう…(さ)(み)(し)(い)…。


…。ちょっと古いJPOPみたいになってしまったけれど、そのときの気持ちに近いんじゃないかとわたしは思いました。しつこいようですが、ここで「仲間よりも、ボーという”女性”を選んだのか?」というのはわたしにとってはどっちでもいいことでした。ボーが男性であろうと女性であろうと、仲間と帰らず、子供の元に戻らず、新しい人生を選んでいれば同じくらいのショックがあったはずなので。

で、姉に

「……って気持ちかなって思った。4は嫌いではないし、つまらなかったわけでもないけど、4が映画として必要だったか、わたしはまだわからない。これまではずっと、子供や子供だったわたしたちにメッセージを語りかけてくれたのに、急におもちゃ側の視点に移ってしまった気がしてビックリした。4は、かつて子供だったわたしたちのためではなく、おもちゃを救うための映画だったのでは?」と言ったら姉が、こう言うんですよ。


「いや、それはちがう。
4は、3までずっと観てきた大人のための映画だった。3を観たあと、わたしは『これまで自分が捨ててきたおもちゃの行方』について罪悪感を抱いたんだよね。おもちゃを大事にしなかった自分を省みたりもした。それで、昔家にあった『ぽぽちゃん』や『めめちゃん』ってどうなったんだろうって思って胸がキュッとなったんだよ。でも、4を観て、救われた。おもちゃにも、おもちゃの人生があったんだ!ってホッとした。わたしが大事にしなかったおもちゃたちにも、ああいう道があったかもしれない。ウッディを大事にできなくなっても、ウッディで遊べなくなっても、ウッディは別のところで幸せでやってるからいいんだよ。安心してね。そう思わせてくれる、大人を救う映画だったと思う。3まで観た人は、4を観なければならない。そういう映画じゃない?あれは」。


ふーむ、たしかにそうだったかも。そうかぁ、やっぱりトイ・ストーリーはこれまでわたしたちをワクワクさせて、おもちゃたちの冒険を描いて、おもちゃにしっかり気持ちを持って行かれて、そして最後に、きちんと「おもちゃから卒業させてくれた」のかもしれない……なーんて思えてきて、やっぱりいい映画だったんだな。と思い始めた。それがこの1ヶ月間の、わたしの心の動きでした。


ちなみに、同じ会社で多くの映像作品を撮っている先輩に話をきくと、

「4の冒頭は、完全に1の冒頭シーンと対比になっている。アンディに一番に好かれていた人気者ウッディのところに、超最新おもちゃのバズが来て、人気の地位を脅かされたウッディは『バズを追い出してやる』という思考になる。でも今回は、すでにあまり好かれていないウッディの元に、ウッディよりももっともっと機能のないフォーキーがやってくる。でもウッディは『フォーキーこそが、ボニーにとって大事な存在なんだ』とわかっている。冒頭でもう、ウッディのこれ以上の精神の成熟はないなと思いましたね」と語っていて、やっぱり映画を撮る人の視点で観ると解像度が高いんだなと思いました。ソンナノゼンゼンワカランヤッタ。

ちなみに彼の視点で言えば、「4は、現役引退をする世代のメッセージ。これ以上の栄光はないというところまで現役を全うしたウッディが、若い世代に嫉妬することなくバトンを渡し、新しい役割へと転じていく映画」とのことで、ハーンそれもたしかになるほどなと思ったわけです。

さらにちなみに他の先輩に言わせると「おもちゃにも救いがあって、素晴らしい映画だった」とのことだったので、ここまで色々な気持ちにさせるトイ・ストーリー4純粋にすごいなと、月並みな感想だけはずっと胸にじっとりべったりくっついております。


つらつらモヤモヤを解決するべきあらゆる見方を描いてみたのですが、どうでしょう。みなさんのモヤモヤした気持ち。ウッディに「どうして?」と言いたくなる気持ち。すこしは薄れましたか。わたしは薄れました。ウッディにはどうか幸せでいてほしい。わたしも大人になります。


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