6月3日の歯医者帰り
数ヶ月にわたって歯医者に通っていた。永遠にも思える予約のコンボを続けて、もしかするとわたしの運命の赤い糸は歯医者に結びついているのではないか、死ぬときに此処が第2の故郷として思い返されるのではないか、この医者とわたしはこの先マブダチになるのではないかなどと無意味な杞憂をはじめていたが、今日、唐突に終わった。
「はい、治療は終わりです。検診にはたまに来てくださいね」。先生がそう言ってくれて、次の約束をせずに歯医者を出た。恋愛であれば次の約束がないのは寂しいことだが、歯医者の次の約束がないのはなんと清々しいことか。わたしのおくちには、いま一点の曇りもないということ。うれしい。
思わず歌など口ずさんで駅まではずむように歩いていたら、「おねえさん、駅はどっち?」と尋ねられた。
とても元気そうな70代くらいのおじいさん3人組。昭和のはずれから来たような風貌。
声が大きくて柔和な顔をしているおじいさんは、大きすぎるジャケットをきて、フランケンシュタインみたいな肩パットのせいで上半身のシルエットが四角い。もうひとりは、茶色のハンチングをかぶっていて、地の底から響いてるような超低音の声。もうひとりは、メガネをずらして目を細め、真下にある携帯をみては「えー?あっちじゃないの?」と漏らしている。
「駅は、あっちですよ」
一言答えると、
「ほら、やっぱりあっちだよねえ?」
「え〜?おかしいな」
「あっちだと思ったんだよ俺も」
と、わあわあ言い合う。
「じゃ、○○はどっち?」
「ああそれは、駅の向かい、あれですよ」
駅に向かうわたしと同じ速度で、おじいさん3人はついてきて「迷ってたんだよ」「やっぱりあれか」などと口々に言う。
「おねえさん、地元の人?」
「地元というか、このあたりに住んでます」
機嫌がいいので、素直に答えた。
「ああ、そう。おねえさん、ほんとありがとう!また良かったら会おうね!」
柔和な顔のおじいさんが、片手を上げて元気よく軽口を叩く。それをきいて、ハンチングをかぶったおじいさんがずっこけるような仕草をして、3人のおじいさんは、だははと笑う。あまりにテンポの良いやりとりに、わたしも思わず、ふふふと漏らす。
周りを歩く人たちは、わたしたちなど目にも入らないように足早に通り過ぎる。途中、迷惑そうにこちらをみる男の子もいた。すみませんね、ここら一帯が昭和のようで。
暑くもなく、寒くもない6月の晴れの日。
わずかに交わって、すぐに別れた。
軽やかな人の繋がりは、心をゆるめる。やりとりを思い返しながら、口の内側で、磨かれたばかりの歯を舌でぺろりと確かめた。あのおじいさんたち、いくらか歯がなかったから。彼らが今日、おいしいお酒を飲めているといいなと思った。
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