書けないことを認めて宣言したら書けることが多いね
こんばんは。
三月のアタマから、ものが書けなくなった。
頭の中には見えている景色が、PCの画面を開いてキーボードに手を置いた途端、真っ白になってしまう。覚えてもいられない。残像をなでることもできず、手は固まったまま、私はスクリーンを睨みつける。
(――デジタルでは気が向かないのかもしれない。アナログならどうだろう)
ノートとペンを引っ張り出す。
…………ペンは、一切動かなかった。
罫線だけが走っている空白が、やけに目についた。
ただ過ぎゆく時間が虚しく、手慰みに絵を描く日々だった。
そして昨日、ついに「文字における創作が書けなくなった」、と、X(旧Twitter)でつぶやいたのだった。
するとどうだろう。
今日短歌が三首も詠めたのだ。
え、え~~~!! である。
出力できてうれしいやら、今まで書けなくなっていたのはなんだったのか。ほっと胸をなで下ろすと同時に、呆れるやら、不思議にも思うやら……。
ここからは私の仮説となる。
私が抱えていた問題を他者に共有したことによって、個人が所有していた問題に対し感じ得ている責任感が和らいだのでは無いだろうか。問題の外部化である。
相談したからといって、抱えている問題が解決されるとは限らないけれど、話すことによって、すこしでも気持ち(身体)がらくになる可能性があるのである。
そういった意味ではSNSは最適なツールなのかもしれない。
似た価値観の人とつながりやすく、繋がろうと思ったら様々な年代とだってつながれる。現実[リアル]ではないからこそ、浅く、ときに深い関係になれる。もちろん人とつながらなくたっていい。手軽に気持ちを吐き出せるツールがあるということが素晴らしいのである。
今回の、私のスランプの場合、「書けなくなった」と悩みを宣言するような形で吐き出したところでいいねがつくだけで特になにか他にアクションがあったわけではなかった。
けれども、たしかに私はすくわれた。ありがとう。
それでは、また。
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