見出し画像

誰が為にかくのか――自分の為やろがい!というのはさておいて

 おつかれさまです。
 名前を持たない私です。

 最近、リアルのいろんな人から、

 「個展やっていませんか。ポスターカードとかあったら買いたいです」
 「個展とかやりませんか、小さいけれど場所貸しますよ」

 と言っていただいて、ありがたいかぎりではあるのだけど(「だけど」が出てきたと言うことは――そうです。逆接助詞です)、ちょっと待ってくれと言いたいので、そこについてお話しして行けたらなあと思います。
それではいきましょう。れっつごー。

自己需要の先にある他者評価――すれ違えば重荷ともなる

 あなたはなぜそれをかこうと思ったのか。そんなの、そのときの自分にとって必要だったからである。だから私は小説を書く。他の人が私好みの物語を書いてくれるのを待つよりも自分が書いた方が早いので。
 ――他者評価なんていうのは行動した後のおまけの果実なのだ。
 さて、ここまで書いた上で、私と同じような捻くれ者ならばピンとくるかもしれない。
 今回、自分が実らせようと思っていなかった先に、丸々と大きな果実が数珠を連ねるように成ってしまったようなものなのだ。
 重い。枝が折れるとなれるだろう(現に私がそうだ)。

 私についてもうすこし話そう。
 小説はプロになりたい。自分の本を書店で見て、にちゃにちゃと笑いたい。そのために書く。書いている。公募に出している。いつか地元を舞台にしたご当地もの小説を書いて読者の方に聖地巡礼してもらいたいというのが密やかな目標である。
 三年前から文学フリマ(主に大阪)に出店している。文学フリマ京都は一般参加が多い。体調が安定せず休職よく挟んでしまう民なので、他地域は遠征するお金が苦しいからほぼいかない。

 絵だ(問題は)。二年半前、とある相互さんに絵を褒められて、再燃した。そのときはアクリルガッシュ、そのあとシャーペンでモノクロ、昨年の七月から水彩に足を踏み入れた。絵を描いたり描かなかったりして過ごした二年半であった。
 自分は自分の絵の弱さがわかっているつもりだ。自己評価として、まだまだ目標に手が届いていないと身にしみる日々である。
 パーツの位置や角度が違う、パースが狂っている(歪んでいる)、濃淡の「濃」が圧倒的にたりない、などなど。あげればキリが無い。むろん、それらを個性の一つとして落とし込んでいる方々もいらっしゃる。しかし、そういった方々は往々にして基礎がしっかりされている方々なのである! 幹をどっしりと構え、土の下には根を這わせ、いっぱいの空気と水を吸い取り、思うように枝葉を伸ばしていっている人たちなのだ。
 私はその基礎的な力を磨くために、せっせらと絵を描いている。これだって三月に中之島美術館「福田平八郎展」を鑑賞し、ぶちのめされたからだ。前からちょこちょこと描きはしていたけれども、そうしてやっと本格的に絵と向き合うため走り始めた物語なのである。
 話を戻そう。
 この土台作りというのは、土の下の根を張ろうとする行為だ。そこで、既に身に余る他者評価という名の果実がついたら、「いまっ!?」となるわけである。

チャンスは待っていてもやってこない、とは言うけれど

 ここでですか、という戸惑いが大いにあるのは許してほしい。ひょんなことからチャンスは舞い込む。そのとき、打てる限りの力で、打ち返すしかない。それが未熟者ができる精一杯の誠意だ。

 ありがたい話をもらえばもらうほど怖くなるよう。えんえんえん!

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?