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【短編日記小説】#3 魅惑

 夏に見る日の長さは、それ自体が夜という闇を嫌っているような気もしないではない。一切の光が差し込まない暗晦な牢獄に囚われていたが為に、暗所恐怖症などという、厄介な症状に冒されてしまった囚人のように。
 それと称した天為てんいを囚人の精神に喩え、見比べ、けみしようとする行為も、余りに稚拙で無礼で、奇態な実験と揶揄されても返す言葉は無いに等しい訳だが、天を始めとする自然でさえも一衆生しゅじょうと見做すのであれば、そこまでの罪悪感に駆られる必要もないような。
 仕事を死ぬまでの暇潰しぐらいにしか考えないhが、一途に残業を嫌う理由も判然としない所で、それを訝しむ社長や他の従業員達の視線も少なからず痛く感じるhではあったが、それよりも怖かったのは、定時で帰ってから就寝までの時間が余りにも長く感じられる、まだまだ明るい外の景色だった。
 毎日最低1時間は残業している、仲間とは呼び難い会社の連中を他所に、早々とも当然のように、尤もらしい顔つきで、独り労いの杯をあげるh。「乾杯」という声までは発しなくとも、初めの一口が臓腑に沁み入る、爽快で玄妙な味わいは、飲み終えた後に大仰に眼を見開いて遠い景色を望む、彼の純然たる仕草が体現していた。
 酒のあてをスナック菓子だけに頼っている事に少々飽き、亦健康的な不安を覚えるhが、最近凝っているたこ焼きやお好み焼きの自作。誰にでも簡単に作れるこのあてを、作業的に作り、テーブルに運んでは早速食する彼の面は、滑稽にも至福の破顔で綻んでいた。
 細かい話だが、このような粉もの料理はコスパ的にも優れていて、却ってスナック菓子よりも安上がりにさえ思われる。とはいっても所詮は炭水化物。健康的な筈もない訳だが…。
 外にある工事現場からはまだ工事の音が聞こえて来る。通る声を風にのせて響かせる、作業員達と同等に働くガードマンの懸命な姿も。
 気の細いhの精神はやはり、知らぬうちにも乱れていたのだろうか。悪びれる必要もないのに、意識は散漫として、何時ものような酒の飲み方が出来ない。この状態が続けばほろ酔いする前に悪酔いしてしまいそうな気配さえする。実際に頭はふらふらと宙を漂い、その感覚的意識は朦朧と飛散してゆくばかりだ。吐気はしないまでも、胃が肝臓が、神経が悲鳴を上げ、何かに縋りつこうとしているような気がしてならない。そう、沖で遭難した小舟が、大船の姿を追い求めて、力なくも海面を彷徨うような調子で。

 故知らずに憔悴し切っていたhが漂着したのは、幻の孤島であった。乗っていた舟はその残骸すら海の藻屑となって消え去り、酒気などは身体のどの部分を抉っても出て来ない程に蒸発していた。海水を多分に含んでいる筈の身体も何故か軽く、ぷかぷかと浮いているような心地だ。
 だが良い所だけではない。意識ははっきりしてるが、感覚という感覚がまるで麻酔でもかけられたかのようにぼやけ、特に耳には何の音も届かない。辛うじて見えている、この素晴らしく神聖な島の景色が勿体なく思える。彼の五感はその存在ごと、限りなく希薄に溶かされようとしていた。
 眠ったまま起きている、或いは起きた状態で眠っているような彼の意識に、直接刺激を齎したのは、花も恥じらう程に透徹された歌声という音であった。聴覚を失った筈の彼が聴くその歌声は、耳を介さずに、あくまでも中枢神経に直に働きかける、音波の作用であり、それは有無を言わせずにhの気分を冷たく癒してゆく。
 歌声を放つ者の正体は、漫画やアニメ、御伽噺などに出て来る、ニンフという妖精の類だろうか。如何な高尚なクラシックでも吟じきれないであろう、その音楽を超越した声の響きは、唯に壮麗な芸術だけを顕示し、どのような事象にも含有されて然るべき醜悪さは微塵も感じられない。
 この世の天国とは正にこの事か。このような環境ならば、たとえ五感の全てを剥奪されようとも、此処に永住したいものだ。もはや煩悩など生じようもない。遍く事物は此処を訪れた時点で、既に、快楽の境地にいざなわれたも同然である。思考の停止ですら哀れに思えない。
 薄っすらと開いた眼で天を仰ぐと、そこには川のような雲が流れていた。微かに見える蛍の光の点在は、やはりニンフの仕業に由るものか。絹糸の如きしなやかな曲線美を華麗に可憐に揺蕩たゆたわせる、緑の雲の悠揚は、やがて相撲取りがつける廻しのような、太い帯となって、流れ星の如きはやさで、烈しく美しく乱舞し始める。
 そうして地上に降り注がれるオーロラの光は、羽衣の天蓋としてhの遍身を包み込んでしまうのだった。
 包帯ならぬ、絹の羽衣にて包まれた彼の身体は、身動きが取れないまま、滅して行くだけなのか。それも良い。最期にこのような幻の世界の享楽に与れたのなら、言う事はない。悔いるまでもない前非。いや抑々前世自体が存在しなかったのだ。畢竟、己が生命の存在を否定する事になろうとも。
 あの雲は、それ自体が天女であったのだろうか。それが神となって地上近くにまで化現したのであれば、其処にも何らかの意図があったとも思われる。天はその行いを通じて、自分に蒙を啓かせようと、尽力を注いでくれたのだろうか。もしそうであるなら、それこそ何故なにゆえに。
 このように大仰にも繊細に事の次第を、掘り下げて考察するhの感覚は、知らぬ間に元に戻り、何時しかその眼は、部屋の天井を仰いでいたのだった。上体を起こしてテーブルの前に坐してみると、飲みかけの酒もまだきちんと残っていた。外から聞こえて来るガードマンの、澄んだ力声もそのままだ。然程時間も経ってはいなかったのか。
 ニンフの美声と羽衣の光を、尊大にも自らが表出した、内なる才気の表れと捉えるhの面差しは、夢から覚めた後も尚、魅惑の代償たる副作用に苛まれる事なく、明るい光を湛え、自身の隠れた力に打ち震える手先は、ワイングラスを持つような強くも優しい力加減にて、彼の口許へと運ばれ、貧相にも優雅な、清貧たる矜持を以て、酒の続きを独り、演じて行くのだった。


 
 
 
 
  



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