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鎖の街


                      鎖 の 街


1.A naked man「裸の男」

 
 まったくもっていい加減なところだ、
タイのチェンマイに入国してすでに3日目、このまったりとした時間に馴染むどころか、蒸し暑い気候と、ホテル内禁煙が、さらに苛立ちと焦りを助長させている。
 約束の時間になっても現れないガイドは、どういう言い訳をするのか見ものだが、たぶん相当なめられているのだろう。
 ホテルの微妙な朝食を済ませ、私は濃いコーヒーをチビリチビリと口につけながら、ホテルのエントランスと、一枚の写真を交差して眺め、此処に至るまでの事で思いに耽っていた。
 入国初日、空港では税関職員に怪しまれ、長蛇の列の面々に冷たい青い視線を容赦なくあびせられる始末に、前途多難を予見させるスタートだった。

怪しまれた原因に、滞在日数に比べて荷物が少な過ぎると判断されたのかもしれない。
「シュウイチ・クドウ」・・・いまいましい感じで男の名前が入ったセンスの無いパスポートをペラペラと捲る職員は、両手を軽く挙げ、やれやれと首を横に振りながら、パスポートと私を交互に睨んでくる。
 同じポーズをやってみたが、冗談は通じないようだ。
 押されたエントリーは中途半端な六ヶ国目になった。
 この印象では二度と来ないだろうと思いながら、開放されたゲートを抜けて、空港出口で待ち受けていたタクシーに吸い込まれるように乗り込んだ。

「オーキッドホテル」・・

 壁に向かって言うように無関心に運転手に行き先を伝えた。
 初老の運転手は、ホテル名を復唱しながら、そろりと車を車線に合流させる。
 行きかう車やバイクを眺めるが、サイドウインドウにヘッドライトしか映らないのは、この運転手は、洗車をあまりしないのだろう。
 バックミラーでこちらを確認するように「チャイナ?イープン?」と、語尾を中途半端にあげて質問してくる。この運転手は英語があまり得意ではないらしい。

「イープン」・・・

 あまり見えない外を眺めながら、相変わらず壁に言うように答えた。
 バックミラーに映っている運転手は下卑た笑顔で、しきりに話しかけてくる。どうやら女が必要であろうとセールストークをしているようだ。
 アジア圏の国々は、日本人の男、イコール色情趣向と決め付けているようだが、反論する理由もないし、現実が物語っているのは否めない。
 たぶん日本人を紹介すると、率のいいマージンが運転手の懐を潤すのだろう。

「It comes on business.」
「Please guess!」(仕事で来ている。察してくれ!)

 運転手同様、英語は得意ではないが、すんなり通じたようだ。
アジア圏に共通である事を3ヶ国目のフィリピンで気付いてから、得意な英会話の一つに加わっているのだ。
 初老の運転手は税関職員と同様、やれやれと首を横に振りながら、無表情な顔に戻して、一言も喋らなくなったが、多少の時差ぼけには、そのほうが都合いい。
 おもむろに、腕時計を触った、夜の9時を回ろうとしている。
薄汚れたタクシーのサイドウインドウにようやくなれた頃、オーキッドホテルに到着していた。
 エントランス付近でボーイがホテルの警備員となにやら雑談している。
 ボーイが客だと気付いた頃には、私は、エントランスを通過していた。ボーイに悪びれた素振りは一切見受けられない。
 まあ、こんなもんだろうと納得しながらチェックインの手続きを始めた。
 滞在は二週間の予定だが、これからの行動計画はまったくの白紙だった。まずはある男の居所をつきとめなくてはならないが、知らない国での単独行動は危険である。チェックインを済ませながら、私はフロントに尋ねてみる事にした。

「ガイドを手配したいが、」

 フロントの若い女性は、少し困った顔つきで、英語で答えた。

「It wishes in English.」

 どうやら日本語を話せるスタッフではないらしい。
 私は、搾り出すように、英単語を並べた。

「I want to arrange the guide.」

 拙い英会話では、仕事をやり遂げられるか心許ない、もちろんタイ語も喋れないし、日本語を話せるガイドが必要だったが、出発前までに日本人が経営する現地ガイドは確保できなかったのだ。

「It will confirm it tomorrow morning.」

 何とか、通じたようだった。
 フロントの若い女性は、明日の朝までに確認すると言いながら、ラブホテルのようなキーチェーンのついた鍵を渡した。512の文字が摺れて剥れかかっている。もちろん、部屋までの案内はいない。
 一応、ホテルのパンフレットには、王室御用達のフレコミと「日本語OK]になっているが、それをフロントに聞いてみても、そのフロントは当然のように答えた。

「There is no such staff.」

 そういうスタッフはいない、つまり、孤独であるという事だ。
だだっ広い部屋に入ると真っ先に水圧が低く、水量が少ないシャワーを浴びはじめた。
 冷温の調整が職人レベルに難しいが、オリエンタルな香りがする石鹸に、まあ、こんなもんだろうと納得するしかない、冷蔵庫を開けると二種類のビールが1ダース程入っている。冷え加減は合格だった。
 ハイネケンの瓶を取り出し直瓶で一気に飲み干したが、二本目はなかなか進まない。
 明日からの計画を考える事で、あまり使わない前頭葉がますます憂鬱になっているらしい。
 五年前の怒りと、恐怖が複雑に入り混じった、あのいまいましい過去と、そのときの事件が、私の脳裏から離れないのだ。
 暴力組織と手を組み、一つの街を崩壊させ、また、一人の女性の人生を無残にも終結させた男。走馬灯のように蘇る記憶と、この腑に落ちない感情は、今の抜け殻のような私には、ひどく持て余してしまっている。
 おもむろにテレビを点けてみると、日本の古いドラマがタイ語の吹き替えで放送しているが、興味をそそる事はなかった。
 ぬるくなった二本目のビールを飲み干し、無用に大きいキングサイズのベットに横たわってみる、天井は高い、狭所恐怖症の自分には、寝る環境の第一条件のように思える。
 意味不明のテレビの声を聞き流しながら、どういうストーリーだったか考えているあいだに、目を瞑ったまま、いつの間にか別の物語を紡ぎ出していた。

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