表紙2

COMITIA128新刊「獣の姿二」文章サンプル

5月12日のCOMITIA128で頒布する小説、「獣の姿二」の冒頭文のサンプルです。

サークル名:竹風 スペースNo:F05b
「獣の姿二」A6 61p 500円

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 1

 開業以来稀に見る忙しさだった。
 一ヶ月ほど前のことだろうか。定期的に診ていたミニチュア・ダックスフンドのリウマチが悪化し、入院することになった。
 次に来たのは、飼い主の不注意で家のドアに挟まれ、肋骨を折ってしまった三毛猫。次に、風邪をこじらせて肺炎にかかった柴犬。
 スコティッシュフォールド、ブルドッグ、アメリカンショートヘア。さらには文鳥やハムスター。次々に入院〝患者〟がやって来た。
 この動物病院の〝ベッド〟、つまり動物用ケージは、大小合わせて十五ほど用意してある。普段なら二、三個、多くても七、八個に動物が入っているが、ここ最近は埋まりに埋まって、最後には大型犬用の大きなケージが一つ残るだけとなった。
 それだけ患者がいれば、餌やりや様子見が大変になる。いつ何が起きるかわからない患者もいるので、自宅も兼ねている身では毎日宿直状態にならざるを得ない。
西野さんが時折泊まり込んでくれるのが救いだが、同時に無理を強いて申し訳なくもなる。
毎晩やって来る岡本も流石に空気を読んで、飲みに誘ってくることは無かった。
 香西さんの店も大分ご無沙汰していて、挙句の果てには、香西さんの店に皆で飲みに行く夢を見た。
 座敷の席で岡本と西野さんと三人で飲み、注文したものを運んできた香西さんがたまに話に入ってくる。話し込んでいると、店の大将が厨房の奥から彼を呼びつける。いつもの風景とやり取りが、自分の頭の中で繰り広げられていた。
 夢だと気付いた瞬間、俺は現実の世界に引き戻された。
 カーテンの隙間から漏れる光が、部屋を浮かび上がらせる。
 時計は六時過ぎを指していた。
 俺は目を覚ましてから頭が覚醒するまでに時間が掛からない体質で、だらけることなくベッドから抜け出る。この体質は仕事をする上でとてもありがたいもので、たとえ寝坊しても、準備に手間取って開業時間を過ぎるようなことは無かった。二日酔いの日を除けば。
 寝室を出ればリビングとキッチン。一階が病院なので、水回りも二階に設けた。
料理はあまり得意ではないので、朝食は決まって、食パンの上にレタスとハムを乗せてトースターで焼くだけの、非常に簡素なものである。コーヒーを淹れるのも面倒なので、飲み物も牛乳と決まっている。
 以前、西野さんと朝食の話になった時にこのメニューを言ったら、それでこんなに働いて、よく倒れませんね、と言われた。
 なら、西野さんは、と聞き返すと、彼女は玄米のご飯とサラダ、飲み物は紅茶だと言う。朝から豪勢な食事をしているものだ。それに体に良さそうなものばかり。何だか鹿らしいね、と言えば、人でいる時は人が食べるものを食べます、と怒られてしまった。
 俺たちの間ではすっかり当たり前のことになっているが、西野さんは鹿である。彼女も仕組みはわからないと言うが、人間の姿をして、人間としてこの社会を生きている。
 俺の周りには何故か、「人間になれる動物」というのが何人かいる。先程話に出た岡本と香西さんもそれで、それぞれ犬と蛇だ。彼らはそれぞれの動物として生まれ、赤ん坊の時に突然人間になり、その姿でいるところを大人に見つかり保護された。そこで仕方なく人間として生きるが、ある時、自分が動物であったことを思い出し、動物の姿を取り戻す。そこから今度は、人間としての自分と、動物としての自分の、二つの側面を持つ存在として、複雑な〝人生〟を歩み始める。時に人の残酷さを嘆き、時に人の温かさに心を震わせる。そうして、人間の自分と、動物の自分に上手く折り合いを付けて生きていた。
 西野さんが来る前にやらなければならないことがあるので、さっさと朝食を済ませて身支度を整え、一階へと降りた。
 裏口の鍵を開け、台所へ向かう。ここは二階のキッチンとは違って、入院している動物たちの餌の準備をするために設けたもの。
病院を開けたら、入院患者は西野さんに任せきりになってしまう。患者の状態を観察するためにも、朝の餌やりは俺の仕事としていた。一匹、一羽、一頭、丁寧に見て、体の調子を確認する。そこで気付いたことは逐一カルテにメモして、今後の治療方針の参考にする。平時ならこの後、往診の準備が終わる頃に西野さんがやって来るのだが、近頃は餌やりの途中で出勤してくることが多かった。入院患者が多いこともあり、俺も彼女も朝早くに仕事を始めることにしているからだ。
 今日は十匹ほど見た辺りで、西野さんが出勤してきた。
 裏口のドアが開いたかと思うと、ドタバタと走る音が病室まで聞こえる。部屋に駆け込んできた西野さんの血に濡れた腕には、黒猫が一匹抱きかかえられていた。身じろぎ一つしない身体は、赤い肉が所々見えている。

「これは酷い。この子は何処にいたの?」
「いつも通る公園の、茅の木の下でうずくまっていました」

 西野さんからそう聞いて、二つの可能性を思い浮かべながら猫をよく見た。
 傷口は切られたというより、何かと擦れたり引きちぎったりしたようなものだった。
 これで可能性は二つの内の一つ、交通事故に絞られた。
 もう一つの可能性というのが、ここしばらくの病院の状況にも関わっている。
 この病院のある地域で、野良猫が何者かに傷付けられる事件が多発していた。
 最近増えた入院患者の内、三匹がこの事件の被害に遭った子である。
 亡くなってしまった子もいたようで、話を聞いた飼い主たち、特に猫を飼っている人たちが、待合室で不安げに話していたのを覚えている。
 事件に巻き込まれた子ではないものの事故には遭っているので、西野さんが警察に連絡した上で、処置に取りかかった。
 傷は胴部に五ヶ所。かなりの血が流出しているため、事は一刻を争う。

「この子も、そうなの?」
「はい。この子も私たちと同じ、『人になれる動物』です」

 黒猫の治療を終えて病室に運ぶ道すがら、西野さんはそう言った。

「そっかぁ。じゃあ、後で事故に遭った時のことを聞けるね」
「それは、どうですかね」
「何かあるの?」

 俺は猫を抱えたまま立ち止まり、西野さんの答えを待つ。

「〝彼〟は、おそらくですけど、人であることを諦めてると思います」
「諦める?」
「私たちは生まれた時は動物で、その後突然、人の姿になります。私はその時点で人に見つかって拾われて、人になりました。そこで初めて、〝人として生きる〟という選択肢を得たんです。でも、そうやって人に見つけてもらえるのは、奇跡と言っても良いくらいの偶然です。人の姿になっても、誰も見つけてくれない。そうなれば、人の姿になる理由が無くなります。〝人として生きる〟という選択肢を捨てて、動物として生きていく。そういう動物を、何度か見てきました」
「つまり、人間の姿になるっていうのは、その能力を持った動物の生存戦略、みたいな感じなのかな」
「多分、そうだと思います」
「その動物が人間になれるかって、見てわかるものなの?」
「わかりますね。何というか、人の気配と動物の気配、両方を同時に感じるんですよ。ただ、この子みたいに人になるのを諦めてる動物は、見た瞬間にピンとは来るんですけど、何か違和感があるんですよね。人の気配があるはずなのにそれを感じない、というか」
「じゃあ、この子は人間にならないんだ」
「そうだと思います。そもそも、言葉が通じているかも怪しいところです」
「そこからなんだ……」

 俺の腕の中で、黒猫が小さく、みゃあと鳴く。
 この子が何と言ったのか西野さんに聞いてみたが、他の動物の言語はわかりません、と一蹴された。
 病室に入り、床に置いてある大型犬用のケージに黒猫を入れる。
 現状、〝ベッド〟の空きはこれ一つしかない。仕方のないことではあった。
 黒猫にとってはその気になれば中を走り回れるほどの広さだが、治療してすぐのため、そんな元気は無い。第一、しばらくは安静にして経過観察をしなければならないので、大人しくしていてもらわないと困る。
 黒猫はケージの中で丸まり、眠る姿勢に入った。
 ちょうどそのタイミングで本日二匹目の患者がやって来たので、俺と西野さんは慌てて開業準備をする。
 これは、開業遅れにはカウントしないでおこう。

 目覚めの良さと、睡眠の質の良さは必ずしも同じでは無い。
 昨日は患者の診療に加え、後からやって来た警察への事情説明やら何やらで、いつも以上に気を遣っていた。その気疲れはどうやら想像以上のものだったらしく、こうして翌日に持ち越されたというわけである。
 動きの鈍い身体を無理やり動かして、一人の人間から一人の獣医師になる準備をしていく。
 全ての準備を整えて一階へ降り、俺は「獣医師」になる。
 裏口の鍵を開け、患者たちの食事の準備のために台所に立ち、出来たものを病室へ運ぶ。
 餌やりを始めようとしたところで、俺は驚きのあまり、餌を落とした。
 大型犬用のケージ、昨日、車に轢かれたらしい黒猫を入院させたケージの中で、人間が正座の状態で膝を抱えるように体を丸め、浅黄色の肌を五方の鉄柵に押し付けてもがいている。
 〝彼〟が人間になれることは昨日、西野さんから聞いた。それと同時に、人間にならないだろうことも聞いた。
 なのに何故、〝彼〟はこのタイミングで人間になったのか。
 いや、それよりもまずは、〝彼〟を出してやらないと。
 俺は声を掛けながらケージに近付き、扉をそっと開ける。俺の言っていることが伝わっているかはわからないが、〝彼〟が入り口から頭を出し、腕を出し、肩まで出たところで俺は息を吐いた。
 素っ裸で床に座り込んだ〝彼〟は、随分と大きな体である。猫の時は一般的な大きさだったはずだが、猫の成長速度と人間の成長速度が違うからだろうか。
 〝彼〟に事情を聞こうとしたところで、裏口のドアが開く音がした。
 西野さんなら何かわかるかもしれないと、彼女が来るのを待とうとしたところで、〝彼〟の姿を思い出す。一糸纏わぬ大男の姿を、清純な女性の眼前に晒すわけにはいかない。
 俺はとっさにケージの床面に敷いていた毛布を取り出し、〝彼〟の腰回りに掛けた。
 それとほぼ同時に、西野さんが病室に入ってくる。

「おはようございます……、って、その〝人〟……」
「そう。昨日の黒猫。……あ、おはよう」
「ですよね。おかしいなぁ。人にはならないと思ったのに」
「何で急に人間になったんだろう」
「人になる理由、ですか。ここまで猫として生きてきて、今更何のために……」

 どうやら西野さんでもわからないらしい。西野さんがわからないことを俺が考えたところで答えは出ない。
返事がもらえるかはわからないが、改めて〝彼〟に話を聞こうと彼の方に振り向くと、今度は〝彼〟が突然立ち上がった。
 立ち上がったことで腰回りを覆っていた毛布が落ち、全身が露になる。
 突然のことではあったが、俺は素っ頓狂な声を上げながら〝彼〟と西野さんの間に立ち、彼女の視界に「それ」が入らないようにした。
 〝彼〟も、目の前に立ちはだかった俺を警戒してか、それ以上動かないでいる。
 確認がてら西野さんの方に顔を向けると、彼女は怪訝な表情をしていた。

「えっと、先生?」
「へ?」
「何を、って、あぁ、そういうことですか。大丈夫ですよ。鹿ですから、〝人の〟には興味無いです」
「そういう問題じゃないから!」

 彼女があまりにもしれっとした顔で言うものだから、俺はつい、むきになってしまう。

「わかりましたよ。そういうことなら、何か履かせましょうか」
「そうだね。二階に俺の作業着があると思うから、それ持ってきてくれる?」
「じゃあ、ちょっと行ってきますね」
「いって、らっしゃい」

 そう言おうとした俺の後ろから、俺よりもずっと低い声がたどたどしく俺の言葉を音にした。
 二人共、驚きのあまりしばらく〝彼〟から目を離せなかった。

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