表紙

COMITIA117新刊「獣の姿」文章サンプル

8月21日のCOMITIA117で頒布する小説、「獣の姿」の冒頭文のサンプルです。

サークル名:竹風 スペースNo:K19a
「獣の姿」 A6  61p 600円
※2017/5/4追記
2017年5月6日の「COMITIA120」では価格を600円→300円に変更させていただきます。

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 1

 子犬が産まれた。
 電話口で狂喜する飼い主の様は、まるで自分の子どもが産まれたかのようだった。
 俺はすぐに次の指示を出した。子犬と一緒に出てきた胎盤を破って捨てること。母犬が食べ過ぎてお腹を壊さないようにするためだ。子犬の体をタオルで拭いた後、首をしっかり持って体を固定し、子犬が鳴き声を上げるまで大きく二回ほど振る。やり方は荒っぽいが、これは喉に詰まった羊水を取り除くため。そしてへその緒を短めに切り、血が止まらないようならタコ糸で根元を結ぶ。その後、母犬のそばに置いてやり、お乳を吸わせる。次の子犬が産まれたらこの手順を繰り返し、先に産まれた子犬を、声の聞こえない別室などに移す。母犬が出産に集中できるようにするためだ。別室は空調に気を使い、常に様子を見に行くこと。
 電話越しでは、飼い主が手順を間違えなかったかなどはわからなかったが、その後も順調に兄弟が産まれたようだった。
 ゆりかごから墓場まで、とはよく言うが、一つの命の一生を見届けることが出来るのだから、獣医という仕事は悪くないと思う。
 この母犬も、飼い主がブリーダーから譲り受けて以降、かかりつけの獣医としてずっと診てきた。繁殖についての相談も早い内から受けており、出来る限りのアドバイスをしてきた。
 それを基に、母犬のために伴侶を探し、出産にまでこぎ着けたこの飼い主の熱意は相当なものである。彼は飼い犬をたいそう溺愛しており、今日は犬が産気づいたというだけの理由で有給をねじ込み、出産に立ち会っていた。
 俺は安堵からため息を漏らしつつ、彼に祝いの言葉を掛ける。

「良かったな。おめでとう」
「ありがとう。本当に良かった。よくやったな、ヨーコ」

 きっと頭でも撫でてやっているのだろう。母犬を労う彼の声は、慈しみに満ちて優しく、少々涙声だった。

「まだ油断は禁物だからな。しばらくはヨーコや子犬たちを注意深く見ててやること。何かあったら、すぐ連絡しろよ」
「わかった。本当、ありがとな。また今度、一杯やろうよ。香西の店で」
「今度な。お前も疲れたろ。ちゃんと休めよ」

 軽く返事を返して、彼は電話を切った。
 その時を見計らっていた人物が、後ろから声を掛けてくる。

「子ども、無事に産まれたんですね」
「そうみたい。っていうか、帰って良かったのに」
「帰ろうとした矢先に電話が来るんですもん。もう、気になっちゃって」

 普段から動物たちと同じ目線で向き合う、西野さんらしい答えだった。
 大学や、以前に勤めていた動物病院などで多くの看護師を見てきたが、彼女ほど動物に真正面から向き合い、しっかりと気持ちを理解しようとする看護師はいなかったように思う。スタッフが自分含めてたった二人の病院だが、彼女がいるからどうにかやれているのだと、常日頃から感謝している。本人には、ちゃんと伝わっていないようだが。
 時計を見れば、すでに夜の十一時を回っていた。遅い時間に女性一人では危ないと思い、送り届けようと診察室の椅子から立つ。しかし彼女から、送り狼はごめんだときっぱり断られた。以前から彼女に、それとなく気のある素振りを見せたのがかえって良くなかったらしい。元々恋愛事に疎いので、意中の人へのアプローチというのがどうにも上手くいかないのだ。
 結局彼女は一人で帰ってしまった。俺はその後しばらく、彼女のポニーテールが揺れる後ろ姿を思い起こしながら、己の不甲斐なさを嘆いていた。



 先生、と俺を呼ぶ声が聞こえて、顔をそちらに向けた。
 受付のカウンターに顎を乗せてこちらを見る彼こそが、昨晩の電話の相手である。

「嫁さんはどうだ?」

 冗談で言ったつもりだったが、彼は至って真面目に答えた。

「あぁ。結構落ち着いてるよ。それでさぁ。産まれてきた子が、これまた揃いも揃って可愛いのばっかでさぁ」
「へぇ。良かったじゃん」
「良かったよー。紀州犬なんて周りじゃ飼ってる奴いないから、相手見つけるのがもう大変で。ただオスを連れてくればいいってわけでもないからさ。人間と一緒で相性が大事だからな。それでやっと、ヨーコの気に入る相手が見つかって、今回無事出産ってわけだよ。母子共に健康。本当に良かった」

 獣医という仕事柄、動物を溺愛する飼い主は何人も見ているので、多少なりともその言動に慣れてはいる。しかし、彼の溺愛ぶりは他の人のそれからは逸脱していて、はっきり言って気持ち悪いとも感じていた。しかも、産まれた子犬は成長するまで自宅で育てると言うのだ。今回産まれたのは四匹。母犬のヨーコを含めて五匹も、一人暮らしの家でどう世話するというのか。

「なるほどねぇ。もうすっかり父親だな」

 先程の仕返しも兼ねてもう一度嫌味たらしく言ってみるが、これもまた笑って受け流された。
 受付を陣取っていては、他の患者の迷惑になるのは当然である。岡本さん、と西野さんに凄まれて、彼は大人しく受付を離れた。
 この動物病院の常連である岡本は、少し幼さの残る顔立ちと人懐っこさから、男女問わず人気のある男だった。俺のことを出会った当初から何故か気に入り、俺に構われたいばかりに、ほぼ毎日、用も無いのにやってきて、受付のカウンターに顎を乗せて熱い視線を俺に送る。それはいつしか、病院おなじみの光景として受け入れられ、邪魔だと怒る人はいなくなった。
 人懐っこさは彼が勤めている会社でも発揮されているようで、飲み会にはほぼ毎日のように呼ばれ、休日の誘いもしょっちゅう声が掛かっているらしい。
 入社したての頃は、ほぼ毎日何かしらの予定が入っていたそうだが、今では誘いに応じるかどうかは半々といったところだった。ヨーコを飼い始めてからは、そちらを優先するようになったからだ。予定をドタキャンして病院に駆け込んできたのを、飼い始めてからすでに三回は受けている。だが、その埋め合わせはちゃんとするので、不満を持つ人間はほとんどいない。いるとするならば、彼に好意を抱く女性だろう。
 真面目でしっかり者で顔も良い。仕事も出来る良い男。こんな良い男をみすみす逃す手は無い。彼自身は知らないようだが、入社当初から水面下での苛烈な攻防が続いているという。そんな中から数多のライバルを抑えて、やっとの思いで彼に告白しても、ごめんなさいの一言であっけなく終わるのがいつもの流れであった。誰もが振り返るような美人を相手にしても、彼は一切、首を縦に振らない。これが数人ならまだわからなくもないが、十人も続いてしまえば、あらぬ噂が立つのが常である。最も聞かれたのは、やはりゲイの疑惑だった。しかし、男といるときの彼の様子は終始普通で、男友達とつるんでいる程度にしか見えない。彼のことがまるでわからない。
 これは全て、彼に好意を抱き、彼に近付くために犬を飼い始め、同じ病院に通って距離を縮めようと来院してきた女性が診察中にこぼした愚痴だ。外野の俺にそんな話をされても、と辟易したのを覚えている。
 その後で、俺は以前に岡本自身から聞いた話を思い出した。
 彼は捨て子だった。大人が彼を初めて見つけた時、彼はある家の犬小屋の中に裸のまま捨てられていたのだと言う。家の主も近所の人も誰一人、彼が犬小屋に捨てられたところを目撃していなかった。両親もわからぬまま、彼は養護施設に預けられることになった。
 親の温もりを知らず、人とは違う生き方をしてきたのだ。自分の中に、どこか薄暗いものを抱えて、幸せを遠ざけているのではないか。あまりの話の重さに、それ以上何も聞き出せなくなった俺が推測できたのはそこまでだった。
 そんな悲しい過去を経てきたとは到底思えない、眩いばかりの眼差しは、なおも俺に向けられている。耐え切れなくなって声を掛けてしまうのが、彼の行動を助長しているのだろうと、常々思ってはいてもなかなか無視できなかった。

「岡本。用があるならさっさと言え」
「なぁ。今晩飲みに行こうぜ! ヨーコの出産祝い!」
「今夜? また今度って言ってただろ」
「いいだろ? 何か用事でもあんの?」
「それは無いけど」
「じゃあ今夜!」
「ったく、嫁さんはいいのか?」
「今日はゆっくり落ち着かせてやろうと思って」
「酔って帰って、迷惑掛けないな?」
「掛けない」
「よし。じゃあ行こう」

 すっかり乗せられた俺に、横で西野さんが笑う。
 別に断れない性格というわけではない。友人として、ヨーコの出産祝いをしたいと思っていたのは事実。他に用事があるわけでも無い。断る理由が無いのだ。



 診療を終えて、手短に事務作業などを片付けた後、待たせていた岡本と西野さんを連れて、居酒屋に向かった。

 自宅を兼ねている動物病院は、大通りから一歩脇道に入ったところにある。通りへ出て、家へ帰る人たちの流れに逆らいながら駅前の繁華街に出た。疲れて帰ってきた人たちを労い、癒すための店が様々並ぶ中、俺たちはこぢんまりとした一軒の居酒屋にたどり着く。ここは以前に岡本に紹介されて以来、ひいきにしている店だ。
 赤い暖簾を潜り、戸を引いて中へ入ると、店員が一人出てきた。

「いらっしゃい! おぉ、今日は揃ってるねぇ」
「ヨーコが子ども産んだから、そのお祝い」
「え! 子ども産んだ? 何だよ、俺には何の連絡も無しかよ」
「悪かったな。昨日の今日だったからさ。お前への報告も兼ねて来たってわけ」
「なるほど。良かったな。おめでとう」

 そう言って彼は、岡本と肩を組んで万歳をする。店員のあまりの喜び様に、俺は少々驚いた。岡本と仲が良いだけあって、価値観も似ているのだろうか。
 香西、と店の奥からその人を呼ぶ声が響いた。香西さんは慌てて頭を切り替え、俺たちを奥の座敷の一角に案内した。
 全員がビールを注文すると、彼はすぐに厨房のカウンターへと向かう。注文を伝えると、厨房から出された料理をその注文のあった席へと運んでいく。すっかり仕事モードに入ったようで、同じ作業を次から次へとこなしていく。
 目付きが鋭いために顔がきつい印象を与えてしまい、怖がられることの多いその人だが、一度話をしてみれば、言葉の端々から感じられる快活さに好印象を抱く。この居酒屋で働き始めて長いようで、常連客やバイト仲間からはよく好かれているようだった。
 岡本ともこの居酒屋で知り合ったらしい。初めて岡本がここへ来た時から意気投合していたと聞いている。
 しばらくして、香西さんがビールを持って現れた。
 テーブルの上にグラスを置いたと思うと、その人は座敷の縁に座って話しかけてくる。

「ところでさ。岡本の子どもってどんな感じ? 見た?」
「いいえ。俺は電話で指示してただけなんで」
「私も、まだです」
「もう、本当に可愛いんだからな! 四匹産まれたんだけどさ。皆可愛くて、可愛くて」
「そっかぁ。俺も子ども欲しいなぁ」
「あれ。彼女いませんでしたっけ?」
「いないよ。どっかに良い子いないかなぁって探してはいるんだけど、だめ」
「探すって言ったって、いるのかよ」
「いや、いねぇよ。いねぇけど探すしかねぇだろ」
「お前はそもそも探す場所が違うだろ」
「それ言わないで。わかってるから」

 香西さんは岡本の肩に手を置いて、大げさに頭を下げて落ち込んだ。少々意味のわからない部分はあるが、彼の敗因は容易に想像できる。強面の男が女を求めて街をさまよってナンパしているなんて、怖くて近寄れたものじゃない。

「まぁまぁ、俺の話はいいから。ほら、乾杯しなよ。岡本、音頭取れ」
「言われなくてもわかってるよ。じゃあ、ヨーコの無事出産に、かんぱーい!」

 グラスを当て、各々がビールを一口飲む。

「よっしゃ! じゃあこの後、岡本の家に乗り込むか」
「止めてください。母犬のストレスになります」
「それ以前に、岡本さんに殴られるのが落ちだと思いますけど」
「おぅ。ヨーコに仇なす輩には容赦しねぇからな」
「ちぇっ、つまんねぇの。まぁ、先生たちが言うんじゃ、しょうがない」

 香西、と彼を呼ぶ声が店中に響き、香西さんは慌てて立ち上がり、厨房へと向かった。
 馴染みの客と話し込んで店主に怒られる。この店ではよくある光景らしく、他の常連客からは、またかよ、などとからかう声が聞こえてきた。

「邪魔なのもいなくなったし、パァーっとやろうぜ!」
「悪かったな、邪魔で!」
「聞こえてたのかよ。あいつ、あんなに耳良かったっけ?」
「さぁ……」

 岡本は西野さんに顔を近付けて話しかける。それに合わせて西野さんも顔を近付ける。何だか気に食わない。俺はすかさず二人の顔の間に手を差し込んで阻害した。

「はい、そこまでー。っていうか顔近くない?」
「何、先生。嫉妬?」
「うるさいな。何だっていいだろ」
「男の嫉妬は醜いってよー」
「西野さん。こんな奴に引っかかっちゃダメだよ」
「大丈夫ですよ。少なくとも岡本さんには引っかかりませんから」
「俺だって、西野さんには引っかかんないからな。俺にはヨーコっていう大事な大事な嫁がいるんだから」
「うわ、自分で言いやがったこいつ」
「気持ち悪いみたいに言うな。俺は本気だかんな」
「お前。溺愛するのはいいけど、あんまり度が過ぎると本当の嫁さん来なくなるぞ」
「もう間に合ってますー」

 こいつ、犬を可愛がりすぎていろいろ支障を来している。ここまでおかしければどうせ同じと、俺は岡本にどんどん酒を注いだ。



 岡本がべろんべろんに酔っ払って収拾の付かなくなったところで、飲み会はお開きとなった。西野さんに任せるわけにはいかないので、俺は足元のおぼつかない岡本を家まで送ることにした。
 岡本の部屋には何度か行ったことがある。この辺りでも評判の、ペットOKのマンションだった。独身同士、どうせ寂しい夜ならば、と朝まで飲んでフローリングで寝たことがあった。ある時は酔っ払ってヨーコに抱き付いたまま眠ってしまい、嫌がったヨーコに血が出るほど噛まれたこともあった。
 また以前のように、二人でしょうもない話をしながら朝まで飲み明かしたいなどと、つい一、二年前のことを、まるで高校時代の青春のように思い返した。
 大事な子犬たちがいて、ヨーコも落ち着かないでいる。岡本は玄関先に放り投げて帰ろう。そんなことを考えていると、マンションの二つ手前の十字路で、突然岡本が声を上げる。

「よぅし。景気付けに一発吠えっかぁ」
「やめろよこんな夜中に。近所迷惑だろ」
「大丈夫だって。人間じゃないんだから」

 そう言うと岡本は俺の肩から腕を振りほどき、俺から二歩ほど横に離れる。視界に捉えた彼の姿が、するりと犬の姿に変わった。
 確かに、犬だった。
 酔って変な幻覚でも見ているのだと、最初は思った。しかしどんなに見つめても、岡本だったはずのその姿は、今は犬でしかなかった。

「……岡本?」

 思わず出てしまった声に犬が気付くことはなく、真っ暗な空に向かって遠吠えを始めた。
 凜とした顔立ちに、白く美しい毛並み。四本の足ですっと立つ精悍な姿は、どう見ても人間ではなかった。

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