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【小説】その感情をまだ誰も知らない




 真っ白な陽気が、彼の黒いスーツを熱していた。キャンパスへ続く道の両脇には木々が整然と立ち並ぶ。その影に入ればいいものを、彼はわざわざ日差しが照り付けるベンチに座っていた。
 暑さに悶え苦しんででも、木に近付くのは避けたかった。この大学に来る“連中”は、学生たちに似て口やかましい。人の気配が無くなった途端、近付いてきてちょっかいを出してくる。
 バサバサと大袈裟な羽音が聞こえると、彼はその方向に対して露骨に背を向けた。ベンチの背もたれに一羽の烏が留まる。首をせわしなく回して、辺りの人間と距離があることを確認すると、彼の方を見て目を細めた。


「今日も見張りか」
「当たり前だろ。あいつは俺のなんだから」
「で、その女はいつ食べるんだ?」
「その内な」
「鮮度が落ちる前に、さっさと食っちまえよ。若いうちが一番美味いんだから。のんびりしてっと、他の奴に持ってかれるぞ」
「だからこうして見張ってんじゃねぇか」
「お前、昔からそうだよな。好きなものは最後までとっとくの」
「楽しみは後にとっとくから良いんだよ。待ってる時間が長ければ長いほど、味わう時の喜びと感動が増すってもんだ」

 彼は今にもよだれを垂らしそうなほどに顔をにやつかせるが、烏からは愉快そうな背中しか見えなかった。
 その様子から味を想像した烏はいっそう目を細め、猫なで声で彼にねだる。

「なぁ、せっかくだから一口よこせよ。あんな上物、全部食い切れねぇだろ?」

 言い終えるかどうかというタイミングで、彼はおしゃべりな烏の首を掴まえて軽く絞めた。翼をばたつかせて抵抗するも、くちばしに付こうかというほどに近い鼻先と、カッと見開いた目は烏に向けられたまま微動だにしない。

「誰がくれてやるかよ。あの女は、俺のもんだ。俺が残らず平らげる」
「わかった、わかった。食わねぇよ。食わねぇから、離せ」

 彼は二、三度念を押してから、ようやく烏を開放する。羽を軽くふるって落ち着きを取り戻すと、烏は彼の顔を下から覗き込んできた。

「でもよぉ。食うなら早くした方が良いぜ。下手打つと、あいつらに横取りされるぞ」

 烏がくちばしを突き出して指した方には、蟻とも蜘蛛とも取れないような、ちゃぶ台ほどの大きさの生き物が、芝生の上に座る学生の周りをかさかさとうろついている。しかし、学生は驚くどころか見向きもしなかった。人の目にはおおよそ映ることのない、妖の類い。彼や烏と同じ存在である。

「だから、あいつの親脅して、あいつを守ってやるっていう体で、何とか独り占めしたんじゃねぇか」

 彼は突然現れた。背に大きな黒い翼を羽ばたかせる、妖しい人間の姿で。
 「烏」を名乗るその男は、娘が妖怪たちに食い物として狙われていることを、彼女の両親に告げた。両親は最初こそ信じなかったが、ならば今ここで食ってやろうと牙を見せつける男に、はったりなどではないことを思い知らされる。それでも愛する娘を守ろうと、食われずに済む方法を尋ねた。
 その問いに男が笑うと、冷えた風が両者の間を通り抜けた。
 ——娘は俺が守ってやる。ただし、娘が死ぬ時に、娘を俺に食わせろ。
 両親は絶句した。守られても守られなくても同じ死に方。そんな恐ろしい末路を、自分は娘に与えるというのか。

「じゃあ、それでお願いします」

 あっけらかんとした声のトーンで答えたのは、食われる当人の娘だった。
 よく考えてから答えろと言う両親に対して、どうせいつか死ぬのだから死に方なんて大した問題じゃないと、彼女はあっさり言ってのける。

「それに、死に方がわかってる方が心構えが出来て、良いんじゃないかな」

 朗らかに答える姿を見た両親は、それで娘が良いのならと、その条件を飲んだ。

「死ぬ間際に食うって、んなもん不味いに決まってんだろ。正気か?」
「俺は『殺さない』、とは言ってねぇよ?」

 まとわりつくような熱風の中、彼は笑ってみせた。
 チャイムが鳴り響き、授業を終えた学生たちが続々と校舎から出てくる。人の波をかき分けて、女性が一人顔を覗かせた。その目が彼を見つけるや、逸る足そのままに駆けてくる。

「お待たせー! さ、帰ろ」
「寄るところは?」
「無いよー」
「こないだ言ってた本はどうすんだ? 使うの明後日とか言ってたろ。明日は授業フルで入ってる上にバイトで、本屋行けねぇだろ」
「あー、そうだった……」
「ったく、行くぞ」
「はーい。じゃあね、烏さん」

 女性が、ベンチの上で大人しく成り行きを見ていた烏に声をかけると、烏は満更でもない様子で翼を手のように上げて返事をした。
 彼の後ろを下がってついて行く女性。烏は二人の背中を見ながら、彼はもしかしたら、女性を食うつもりなどないのではと、ありもしないことを考えていた。
 彼らは人を食らい、己の糧とする「烏」。一人食えば五十年は生きるが、食わなければ死あるのみ。彼が人を食ったのは三十年前が最後のはず。
 己の命と引き換えに、彼は何をしようというのか。烏にはまるで見当も付かなかった。



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