「ことりの心臓」を書いていた間の日常と考えていたこと

台風が近づいてきている。
灰色の空を見ながら、患者さんの枕元で、持っていったパソコンで動画サイトをひらくと、聖歌を流す。
苦しそうに目を閉じ、無言で聞いていた彼女は、二曲目にさしかかるあたりで目を開いた。
オルガンの音を追うようにして、聖歌の歌詞をそらんじはじめる。
ーー主よみもとに。覚えてるもんねえ。
彼女は笑って、小さな朗読は続く。
彼女はがんのターミナルで、お薬で痛みを取っているので眠ることが多くなり、食べられなくなり、それでもわたしが顔を出すたび笑顔でむかえてくれる。
彼女はわたしをいつも褒めてくれる。美人ねえ。曲がった前歯がすてきね。歯並びまで完璧だったら、つまらないわよ。そんなふうに、上手におだてながら。
彼女は知的で、静かで荒立たず、おおらかで、老いを受け入れていた。お年寄りなら誰しも言う、早く向こうに行きたいという言葉を、彼女から聞いたことがない。眉毛をととのえて、髪の毛をとかして、きれいにしている。
でも、彼女は近しい人々におわかれの手紙を少しずつ書いていたし、その体力ももう残っていなかった。時々起きては、手が届く範囲の、身の回りのものを整理していた。
ーーオルガンの音って、本当にいいものね。
彼女がしみじみと言うけど、わたしは頷くしかできない。泣いちゃいそうだから。
祈りとは、積み重ねて初めて、血肉になり、確固たるものになり、ひいては信仰になるのだと思った。そこにはきっとすでに、神様の有無は関係ないんじゃないかと思う。彼女が何万回と祈り、唱え、歌ってきたなかで根を張り実を結ぶものこそが、祈りになっている。
それは特別なことではなく、オルガンを聞けばそらんじれるような、体の一部になっているものなのかもしれない。

今回の話を書いて、祈りについて随分考えた。
きっかけは、梨木香歩と師岡カリーマ・エルサムニーさんの対話で、そこで投げられた一節『宗教の介入なく、人が個を確立する道筋には、深い宗教性に似た何か。祈りに似た何かが必要なのかもしれない。』(わたしたちの星/P152 )が印象深く、わたしも書いてみたくてテーマにしました。
冬と、祈りのようなもの、とテーマをたてたけれど、巻島にとってそれは何か、東堂にとったらなにか。
考えて、手を動かしたら、ああいう話になりました。
祈りのようなもの、とは、地に深く深く根を下ろして行くとき、その層にあるものたちかな、と、書いていてたどり着けたのはそこです。
祈りとは極めて個人的な行いで、それを誰かに強要することはできない。
祈りとは営みのなかにあり、ひいては自分の信じられる価値が於かれた場所に生まれるなら、それは巻島にとったら相手の見えない根を探るシャベルを持っていることだと思って、ああいった「祈りに似たなにか」の表記になりました。わけへだてなくできているわけじゃないだろうけど、これは、と手放したくない人には巻島はしつこいと思う。表面的にはわからないかもしれないけど。
そうして、巻島の一見無鉄砲に見える奇跡の信じ方って、突き詰めたらかたくなに自分を信じているからだと思っている。
東堂は祈りとは無責任で放り投げるようなものだと言っていたけど、そんなものは個人に委ねられているのだから、言い切るのは乱暴だよね。けど、きっと彼はあてのない、形のないものは嫌いそうだなと思う。結局は東堂の営みのなかに祈りがなかっただけで、最後に彼は伸びた根が届いた層のひとつに巻島がいたことを知る。

揺るがない木があったとして、根を下ろしている地を探るとき、層に触れる。
二人のどこかの層には、やっぱりあの8月1日のインハイがあると思うんですよね。
あの日に変わったものを手を替え品を替え、東巻を書き続ける限りはテーマにしていきたいわけです。東巻学会の不朽のテーマですからね。何回書いても、色褪せず、深めがいがあり、新鮮で、いいものだな…
東堂の失くしたと思っていたものは地の深くにあり、冬に根をはることで探り当てた。
東堂も巻島も形は違えど幹の太いふたりだと思っていて、その名状しがたい一本一本の根を、シャベルと手で掘り、探るような話を書くことが、本当に好きです。
その根は絡まったりするけど、決して一つの木にはならないわけです。

あと、自分に近しい人が自分を傷つけている、という図も書いてみたかった。
価値観の歪みを質す、というか寄せていくことは難しくて、関わり続けることがいいことではないとは思うんだけど、どうにか手繰り寄せられる糸口をみつけて、どんな些細な部分でもいいから敬意と愛嬌を持って関わる、というのは、相手も自分も守ることかもしれない。

わたしはこうやって、精神を構造化して言語化していく過程にものすごく興奮を覚えるたちなんですよね…お付き合いありがとうございます。
そうして結局、わたしにとっての「祈りのようなもの」はなにかな、と考えて、ひとの営みを信頼している、という点かなと思いました。
これからも積み重ねるように生活を書いていきたいものです。自分の意図なく誰かや何かに変えられる、という瞬間は日常に潜んでいて、それは事故みたいなもので避けられない。その変化は(はたからみていたら)たまらなく官能的です。
なんだか、そろそろ、酔っぱらって書いている文章みたい。素面です。

彼女が聖歌をそらんじてくれた時間が、彼女との最後の触れ合いになりました。
ありがとうとかさよならとか、言い交わせることが幸福なのか、わたしはわかりません。
でも人生は喜劇と愛であるので。
営みは、祈りなので。
離れていた時間に伸びた根は、決して交わらないどこに張っている。
いつかブラウニーみたいな土から芽が出たら分かるかもしれません。たいがい、一番初めに出る芽は、雑草なんですけどね。

「ことりの心臓」はそんなことを考えながら書きました。

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相楽

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