もうこの世にいない人たちの椅子


いなくなってしまったひとから、手紙が届く。
手紙といっても年賀状で、今までに2回、貰ったことがある。
そこには生前の律儀さが垣間見える。亡くなる何日か前にこれを書き、投函したのだと思うと、わたしはひとの命はしんに誰にもわからないなとしみじみ思う。
年賀状には、未来への言葉が書いてある。
ごく短い手書きの部分には、わたしとひととき触れ合った記憶を手繰り寄せてくれた跡があり、いとおしくて切なくて何度も眺め、彼らをしのぶ。

習字が趣味だった方から、彼の文字を消しゴムはんこにし、はがきいっぱいに「夢」と押された年賀状を貰ったことがある。
わたしはいっとき訪問リハビリの仕事についていて、そのときに週に一回、自宅に伺っていたおじいさんからだった。
若いころ教壇に立っていた彼はユーモアと知性があり、常に穏やかに微笑んでいた。けれど、面倒くさがりで努力することが嫌いで、自分にも他人にもおおらかだった。
彼は、部屋から見える3坪程度の庭に植えてある木々や花を愛していた。
雨上がりにふたりで手を繋いで散歩をしながら、柏や連翹、南天、ばらの話をした。大雪がくる年にはカマキリの巣が雪のぴたりと止まる位置につくことを、垣根を指差して教えてくれた。古米が使い込まれた文机の下に置いてあり、庭先に撒いてはふたりで静かにじっとして、注意深いすずめたちが食べにやってくるのを待った。
治療が終わると、いつも「半分こしよう」と、一杯のコーヒーをふたりで分けて飲んだ。淹れるのはわたしの役目。彼にたくさん分けると、めざとく「少なくていいからね」とたしなめられる。春には軒先で日向ぼっこしながら飲んだ。お昼どきに訪問がかぶったときには、半分こしたコーヒーとそれぞれのお弁当を一緒に食べた。
彼が亡くなったとき、訪問の仕事は先輩に引き継いでいたので、半年以上会っていなかった。それでも、家の前を通りかかるたびに、元気かなと思っていた。
あと数日で、年が明けるという日だった。先輩が泣きながら、彼が亡くなったことを教えてくれる。お孫さんが話をしていて、少し離れたあといってきますと伝えるまでの間に、息を引き取ったみたい。
なんだか現実感がなくて、泣く先輩を見ながら、突然でしたね、とか、そういったことを言う。わたしの悪い癖で、たぶんへらへらしてたと思う。
そうして、年が明けて年賀状が届いた。
ーー幸せの来る日を願っています。
感情を理解するよりずっと早い速度で言葉が届いて、ぼたぼたと泣いてしまった。
泣きながらさみしくてかなしくていとおしくて途方もなく優しい気持ちになって、さみしいね、と先輩と言い合って泣いた。
「夢」という文字はずいぶん習字から離れていた彼が幾枚もごみ箱に捨てながら書いたもので、先輩が消しゴムはんこにして、彼の家族が押したものに、彼が手書きのメッセージを書いてくれていた。誰にとっても、最後の贈り物のような年賀状だった。

仕事柄、おそらく、ふつうの人より多めに他者の死に触れている。
初めて担当の方が亡くなった日のことを、わたしは生涯忘れないと思う。隣り合ってバウムクーヘンを食べたときの外の天気とか、彼女が好きだった「百万本のバラ」とか、モルヒネで眠る彼女にお別れを言ったこととか。
そうして、祖父母が息を引き取る瞬間の、最期の一息のふるえや、肋骨の折れる感触、事故に合い浮腫んで面影の遠くなった顔も。
どれだけ生きてお別れを積み重ねても、その人と交わしたものが薄れることはないと思う。そうして同時に、忘れていくことは、別の何かに押し流されてしまうことでもないと思う。
茨木のり子の詩が好きで寄りどこにしているのだけれど、「歳月」という詩がいつも心にある。
『歳月だけではないでしょう/たった一日きりの/稲妻のような真実を/抱締めて生き抜いている人もいますもの』
伊集院静のエッセイのなかで、忘れがたい一言がある。
『離別は切ないが、つかの間の記憶でも、人の胸のなかに誰かが消えずにいることは素晴らしいものだ』
どちらも、お別れをするたびに思い返す。
たまたま人生のひとときをともにした相手だとしても、なにかが残ったのなら、それは幸いだと、ただひたすらわたしが受け取ったものだけを大事にしている。綺麗なものだけを取り出して眺める。これは、身勝手でわがままなんだけど、もう誰にもあげない、わたしのものだ、と思う。


心には他者が座れる椅子があって、生きている人間のための椅子は、わたしのなかにはたぶん10個もなくて、そこに近しいひとたちが代わる代わる座っていく。
とても大事だったのに一度座っただけのひともいるけれど、今座っている誰かのための椅子だ。生きているひとたちは、いくら欠けてもすぐ椅子を埋められる。生きているからこそ。
けれど、もうこの世にいないひとたちは、そのひとのためだけの椅子が用意される。
柏の木を見上げるときに、カマキリの巣を見つけたときに、「百万本のバラ」を聞いたときに、椅子にひととき彼らが座る。
彼らはわたしの家族ではなく、友人でもなかったけれど、心を通わせたひとをしのぶとき、いつだって椅子は現れるのだ。


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相楽

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