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教科書の上のディエン・ビエン・フー

 令和元年(2019)7月,ハノイのノイバイ空港から,ベトナムエアサービスなる航空会社のイタリア・フランス製プロペラ機ATR72で,ラオスとの国境近くのディエン・ビエン・フー (Điện Biên Phủ)を訪れた。

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 この空港は,もともと旧日本軍がフランスとの協定に基づいて1940年頃に設営した飛行場が前身で,1953年頃,その存在を思い出し,ベトナムとの戦争で利用を思い付いたフランス軍が,この飛行場を再整備,空から人・物を輸送し,このディエンビエンフー に堅牢な野営塹壕陣地を構築した因縁があるとのこと。
 飛行機の窓からも分かるほど,かなり険しい山間部の盆地であるディエンビエンフー基地へのフランス軍への補給手段は,この飛行場(ともう一箇所の飛行場)への空輸に限られていたた。そのため,ディエンビエンフーの戦いにおけるベトナム軍(いわゆるベトミン)の第一作戦目的は,この飛行場の機能不全にあった。

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 ベトナムの中学生用教科書では,フランスとベトナムとの間の第一次インドシナ戦争・抗仏戦争(ベトナムでは「indo-china/インド・シナ」の呼称は知られておらず「Đông Dương/東洋」となる。)の"二百三高地"とも言える,Điện Biên Phủ(ディエンビエンフー )の戦いについて,軍の進め方などの戦術や拠点の名称などが詳述されている。中学生の教科書という観点からすると,日本人からは新鮮に映る。日本でも●●反対運動だけにスペースを割くのではなく,このような教科書だったら,もう少し自国の歴史に興味を持つ子供が増えるのかもしれない,とも思った。

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 ディエン・ビエン・フー 空港から市中心地に通じる通りは「Đường Nguyễn Hữu Thọ (グェン・フー・ト)通り」という。

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 グェン・フー・ト氏は,サイゴンで弁護士をしていて,やがて革命運動に身を投じ,1962年には南ベトナム解放民族戦線(いわゆるベトコン,Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam )の初代議長に就任,日本との関係では,平成2年11月に行われた(平成の)「即位の礼」にベトナム代表として参列された方。
 また,中心部を縦断する主要な通りには,ディエン・ビエン・フーの戦いのみならず,フランスとアメリカとの戦争を勝利に導いた「Võ Nguyên Giáp」の名が冠されている。

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 以下,ベトナム軍の侵攻作戦どおりに戦跡めぐり。
 最初は中心部から北に離れた「Đồi Độc Lập(独立の高地)」。相対したフランス軍は,この高地陣地を「Gabriella」と女性名で呼んでいた。
 ベトナム軍がまずここを攻略し,飛行場が完全に砲撃射程範囲内に。

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 それにしても,中心部に戻って食べた約100円のバインミー(Bánh mì bate xúc xích )とビアハノイが涙が出るくらい美味かった。

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 続いて,文字通りフランス軍の最後の砦となった「Đồi A1 (A1高地)へ」。
 堅牢強固なフランス軍の塹壕陣地を前に,"旅順攻囲戦"さながらの塹壕戦が行われた。

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 塹壕の跡や,ベトナム軍が地下何キロもの坑道を掘り進め,フランス軍の塹壕を地下から960キロ爆弾で爆破した跡のクレーターなどが残っており,フランス軍が使っていたアメリカ製M24戦車の残骸は記念撮影の格好の対象に。

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 やがてベトナム軍は,フランス軍司令部へ攻め入る。
 ここはフランス軍司令部の跡。

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 1954年5月7日17時30分(とベトナムの中学校の教科書に書いてある。)にフランス軍司令部にベトナム軍が攻め入り,カストリ将軍以下参謀将校の全員が捕虜となって,ディエンビエンフー の戦いは終結,フランス映画「インドシナ」でもクライマックスとなっている,同年7月のジュネーヴ休戦協定に至り,フランスは再植民地化を断念する。

 最後はディエンビエンフー の戦いで戦死した英霊を祀る墓地へ。

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 ちょうど訪問日(7月28日)の前日7月27日がベトナムの祭日「Ngày Thương Binh-Liệt Sĩ(戦争で負傷した兵士や死亡した兵士に思いを馳せ,感謝の気持ちを表す記念日)だっため,祭壇に花が供えられていた。
 こういった感覚は,国際的なはずだと思う。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。