見出し画像

焼身供養を見届けたAustin

フエ(Huế)のティエン・ムー寺 (Chùa Thiên Mụ)

1601年建立

 ベトナムの古都フエ(Huế)郊外にある天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)。1601年建立というから,日本では関ヶ原の翌年,ベトナムではフランス植民地支配の気配すらなかった頃に,この寺は建てられた。
 下の写真は,フランス植民地支配のなかで”戦後”の1945年までフエ(Huế)を都とした続いた阮王朝(グェン/Nguyễn )三代皇帝の紹治帝(Thiệu Trị)が1845年に建てた高さ21メートル八角七層の福縁塔(Tháp Phước Duyên)。天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)のシンボルである。

画像3
福縁塔(Tháp Phước Duyên)

 筆者は,令和元年12月8日,上皇上皇后両陛下が平成時代に宿泊したホテル(アゼライ・ラ・レジデンス・フエ)に宿泊し,このホテルから天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)まで歩いてみた。香河(フォン河/Sông Hương)を越えて,ベトナムではありきたりの風景を眺めながら歩いて1時間ぐらいであっただろうか。

アゼライ・ラ・レジデンス・フエ

仏像はポルトガルからの贈物

1802年に阮(グェン/Nguyễn )王朝を開いた初代の嘉隆帝(Gia Long)は,西山(Tây Sơn)グェン氏と争っていて,これを滅ぼすために,フランスやポルトガルから軍事顧問派遣や武器援助を受けていた。
 天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)本堂(大雄殿)に祀られた三体の仏像(下の写真)は,1815年にポルトガルから贈られたものらしい。現代ベトナムのカラフルな仏像より,日本人には”しっくり”くる仏像である。

天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)本堂(大雄殿)

"攘夷"が侵略を招いたベトナム

 ほぼ同じ時代の幕末日本では,幕府も薩長も外国の介入を警戒してフランスやイギリスとは協力を得つつも微妙な距離を保ったが,ベトナムでは外国勢力が国の成立時から入り込んでいた。
 阮(グェン/Nguyễn )王朝第二代皇帝の明命帝(Minh Mạng)は,それに気づいたのか,キリスト教の弾圧を始め,”攘夷”を断行するが,時すでに遅し。同じく”鎖国”を断行するも,当時はヨーロッパよりも武力に勝っていた徳川家光下の200年前の日本とは異なり,ベトナムでは,宣教師の保護などを口実にしたフランスの侵略を招くことになってしまった。
 以上のように阮(グェン/Nguyễn )王朝がフランス植民地支配を招いたという経緯から,ベトナムでは,その初代皇帝の嘉隆帝よりも,嘉隆帝と争って負けるも,かつて清の侵攻を防いで国を守った西山グェン氏のグェン・フエ(阮恵/Nguyễn Huệ)に人気がある。グェン・フエ(阮恵/Nguyễn Huệ)は現在のベトナムの多くの都市の,しかも主要な通りの名称となっているのが,その証左とも言える。

オースチンA95の縁起

ティエンムー寺 (Chùa Thiên Mụ)のオースチンA95

 ティエンムー寺 (Chùa Thiên Mụ)の一角に展示され,とりわけ欧米からの観光客を集めるのが,空の色と同じ英国製オースチンA95である。

画像4
オースチンA95@ティエン・ムー寺

使用者はサイゴンの僧侶

 このオースチンA95は,いわゆるベトナム戦争時のベトナム共和国(南ベトナム/Việt Nam Cộng Hòa)の首都サイ・ゴン(Sài Gòn)の僧侶ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)が使用していたもの。”後”に親交のあったフエ(Huế)の天姥寺(ティエン・ムー寺 /Chùa Thiên Mụ)に寄贈され,展示されているものらしい。
 要するに,ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)師は,このティエン・ムー寺の僧侶でもなければ,そもそもフエの僧侶でもない。サイゴンの僧侶である。巷説,ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)師は,このオースチンA95に乗ってフエからサイゴンへ「焼身供養」に向かったと伝えられているが,どうも間違いのようである。

焼身供養

カトリック信者の大統領

 ベトナム共和国(南ベトナム/Việt Nam Cộng Hòa)ベトナム共和国の初代大統領ゴ・ディン・ジェム(Ngô Ðình Diệm)は,一族揃って熱心なカトリック教徒であるが,国内でデモ行進を繰り返す仏教徒を弾圧していた。

サイゴンのティック・クアン・ドック師

 サイ・ゴン(Sài Gòn)のアン・クアン寺(Chùa Ấn Quang)の僧侶ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)師は,これに抗議し,かつ世界にアピールするため,1963(昭和38)年6月11日,自身のアン・クアン寺(Chùa Ấn Quang)から,このオースチンA95に乗って,衆目が集まるカンボジア大使館前の交差点で停まった。

現在のアン・クアン寺(Chùa Ấn Quang)

実行

 車から降りたティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức) 師は,仲間の僧侶にガソリンをかけてもらい,自ら火を付けて”焼身供養”を行った。これが後にチベットなどにも繋がる”焼身供養”の戦区となったらしい。
 なお,オースチンA95のボンネットが開いているのは,当局に事前に阻止されるのを防ぐため,エンジントラブルを装ったもの。
 事前に外国の報道機関に呼びかけていたので,その様子は,写真やテレビ映像で報道され,世界の注文が南ベトナムに集まるきっかけとなった。

画像1
”焼身供養”

その波紋

 ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức) 師の”焼身供養”が何かの影響を南ベトナムに止まらず,アメリカにまで及ぼしたのか。
 ”焼身供養”の5ヶ月後の1963年11月2日,仏教徒を弾圧していたジェム大統領は軍事クーデターで暗殺される。しかし,それは逆に,南ベトナムがキューバの二の舞で共産化するのを恐れたケネディ大統領により,南ベトナムへのアメリカの介入が強められるという皮肉な結果を招く。ところが,そのケネディ大統領も20日後の同月22日,暗殺される。

現在地

 ”焼身供養”の場所は,現在のホーチミン市,八月革命通り(đường Cách mạng tháng 8)とグェン・ディン・チェウ通り(đường Nguyễn Đình Chiểu )の交差点であると,ティエン・ムー寺 (Chùa Thiên )のオースチンA95の側に掲げれた「 Di Vật(遺品 ) 」には書かれている。

画像2
Di Vật(遺品 )

 現在でも,ホーチミン市の八月革命通り(đường Cách mạng tháng 8)とグェン・ディン・チェウ通り(đường Nguyễn Đình Chiểu )の交差点には,ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)師の供養塔や記念碑があり,供花や焼香が絶えない。

 ”焼身供養”の現在地
供養塔

記念碑

現場の現在

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。