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”賊軍”が矢面に始まった日台関係

日本と台湾

温帯と熱帯が同居する島

 台湾の中心を横切る北回帰線,その北が「温帯」,南が「熱帯」だそうだ。台北は「温帯」に台南は「熱帯」に属することになる。日本は,当然「温帯」である。
 75年前に長崎に原子爆弾が投下され,本来であれば東京オリンピックの閉会式が行われていたはずの令和2(2020)年8月9日の東京・北の丸公園は,もはや「温帯」とは認めたくない暑さ。

北の丸公園(2020年8月9日撮影)

日台関係の端緒

 近代日本と,この温帯と熱帯が同居する台湾との関わりは,時勢が許せば天皇になったかもしれない,北白川宮能久親王が明治28(1895)年5月29日に台湾に上陸したことに始まる。

北白川宮能久親王@北の丸公園

輪王寺宮・北白川宮能久親王

台湾割譲と台湾征討軍

 清国との戦争に勝利した日本は,明治28(1895)年4月17日に締結された下関条約により,台湾の割譲を受ける。
 同年5月10日,初代台湾総督に薩摩の樺山資紀が任命される。しかし,台湾総督府による始政は,同年6月17日とされていた。
 始政に先立ち,日本政府は,残留清国兵などによる反乱を鎮めるため近衛師団を中心とした「台湾征討軍」を送る。台湾征討軍は,まず港町の基隆の攻略を目指し,同年5月29日,台湾総督府の幕僚とともに基隆近くの澳底に上陸,直ちに基隆へ軍を進めこれを攻略する。この辺りは台湾北部で「温帯」に属する。以後,台湾征討軍は南下し「熱帯」を目指すことになる。
 この台湾征討軍の司令官に就いたのが,当時近衛師団長を務めていた(陸軍中将)北白川宮能久親王である。

陸軍参謀 柴五郎

 台湾征討軍に陸軍参謀としてこれに加わったのが,陸軍一の清国通,会津出身で後の陸軍大将の柴五郎。
 柴五郎の名を世界に轟かせることになる「義和団の乱」は,台湾領有後の明治33(1900)年,清国北京で起きたもの。下掲の記事は明治日本が外国と締結した条約と,柴五郎の関わりについて触れたもの。

輪王寺宮と呼ばれた幕末・人質時代

 江戸幕府の徳川家は,家光の頃から西国諸国が天皇を担いで江戸に攻め込む事態に備え,親王を“人質“として上野寛永寺に置く政策をとっていた。その親王は,日光山輪王寺の門跡務めたことから「輪王寺宮」と呼ばれていた。
 幕末もギリギリの慶応3年5月,史上最後の「輪王寺宮」となったのが,本稿の主役である後の北白川宮能久親王である。
 北白川宮能久親王は,慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御した孝明天皇(原因は諸説あり。)の弟。また慶応3年1月9日(1867年2月13日)に若干14歳で践祚した(経緯は諸説あり。)明治天皇は,北白川宮能久親王の甥にあたる。

北白川宮能久親王銅像@北の丸公園

奥羽越列藩同盟の成立

 慶応4年5月6日(1868年6月25日),奥羽25藩と北越6藩の合計31藩による奥羽越列藩同盟が成立する。
 奥羽越列藩同盟は,仙台藩を中心とした奥羽25藩によって同月3日に成立していた奥羽列藩同盟に,翌4日に長岡藩が加わり,さらに北越5藩が同月6日に加盟する形で誕生した,明治新政府から「朝敵」とされた会津藩と庄内藩の擁護を目的とした同盟であり,後に軍事同盟に変質した。

上野戦争

 慶応4年5月15日(1868年7月4日)午前7時頃,江戸の上野において,彰義隊を中心とした旧幕府軍と,薩長を中心とした新政府軍との間で戦闘が起きるが(上野戦争),輪王寺宮は退避することなく彰義隊らとともに上野寛永寺に立て籠った。
 しかし,上野戦争は1日足らず,同時5時頃に彰義隊の敗北で終わる。
 輪王寺宮は,同日中に彰義隊に護られ上野寛永寺を脱出,同月26日(1868年7月15日),品川沖で幕府の軍艦「長鯨」に乗り込み,東北へと向かった。

磐城へ

 輪王寺宮を乗せた「長鯨」は,慶応4年5月28日(1868年7月18日),北茨城の平潟港に上陸する。その日は,磐城泉藩領の甘露寺村(現在の福島県いわき市泉玉露たまつゆ)にあった慈眼院に宿泊している。
 現在の福島県いわき市にあった三藩(磐城平藩,磐城湯長谷藩及び磐城泉藩)は,いずれも譜代であり奥羽越列藩同盟に加盟していた。
 慈眼院が宿泊先に選ばれたのは,かの天海大僧正に由来するらしい。天海大僧正は,会津生まれで,上野寛永寺を創建した家康・秀忠・家光の側近であり,かつ日光山に天皇から「輪王寺」の称号を勅許されるほど。その諡号が「慈眼大師」で,日光山にも天海大僧正を祀る「慈眼堂」がある。宿泊先とされたのはそのような縁起のためらしい。なお,慈眼院は,明治11(1878)年9月13日,大風雨のために崩壊したそうで,現在はこの地にない。

 輪王寺宮は,翌日の慶応4年5月29日(1868年7月19日),磐城平藩士の先導のもと,尼子橋を渡って長橋門から平城下に入る。

現在の尼子橋

 平城では,文久2年1月15日(1862年2月13日)の坂下門外の変を原因に失脚するまで老中を務め,かつ磐城平藩の奥羽越列藩同盟への参加を決断した安藤信正の歓待を受けている。
 その日すなわち慶応4年5月29日(1868年7月19日),輪王寺宮は,平城外の藩校(施政堂)近くの飯野八幡宮に宿泊している。

現在の飯野八幡宮

 輪王寺宮は,翌30日,現在のいわき市内の好間よしま合戸ごうどを経て,(今の三和中学校に近い)中寺村に宿泊,翌日の慶応4年6月1日(1868年7月21日),会津に向けて,今のいわき市を出立している。

会津へ

 輪王寺宮が会津鶴ヶ城に入城したのは慶応4年6月6日(1868年7月26日)。
 当時,少年だった柴五郎は,紅白の幔幕が張られた大手門まで毎朝拝みに行っていたらしい。

奥羽越列藩同盟の盟主に

 輪王寺宮と会津藩主松平容保との間で如何なる言葉が交わされたかは知るよしもないが,会津逗留中の慶応4年6月16日(1868年8月4日),輪王寺宮は奥羽越列藩同盟の盟主に就くことを承諾している。
 もともと新政府に対する反感があったようだ。そもそも,このような時勢に東北に下ってきた北白川宮能久親王には「輪王寺宮」としての確たる覚悟があったのかもしれない。
 同月18日に米沢藩に向けて会津を出立,翌月12日(1868年8月29日),仙台藩の白石城にて開催された奥羽越列藩同盟の最高機関,列藩会議にその盟主として臨席している。

台湾征討軍司令官

”賊軍”の盟主から台湾征討軍司令官へ

 明治天皇側を西軍,輪王寺宮側を東軍とした戊辰戦争は,甥を盟主とする西軍が勝ったという理由で「官軍」となり,他方,「賊軍」となった輪王寺宮の存在はタブー視され,本人も軍人の路を歩んだ。
 その明治日本が清国から勝ち取るも,当の李鴻章すら”化外の地”と称していた台湾に征討軍の司令官として上陸し,”露払い”の役目を担わされたのが,輪王寺宮こと北白川宮能久親王である。

基隆の「北白川宮能久親王記念碑」

 北白川宮能久親王を司令官とする台湾征討軍が,明治28(1895)年5月29日,最初に上陸したのは,台湾の北東に位置する澳底という地。台湾征討軍は,上陸後,直ちに台北近郊港町の「基隆」を目指し,同年6月のうちに基隆と,さらに台北と新竹を攻略し,台湾北部を鎮圧した。
 台湾征討軍が最初に鎮圧した台湾北部の港町の基隆に「北白川宮能久親王記念碑」が現存している。昭和8(1933)年に建立されたもので,2003年に基隆市の歴史建築に登録された。残念ながら,というより石碑が残っていること自体が意外だが,碑文は削り取られている。

北白川宮能久親王記念碑(全景)
北白川宮能久親王記念碑(正面)
北白川宮能久親王記念碑(裏)

マラリア禍

 台湾征討軍は,上陸から約5ヶ月後の明治28(1895)年10月21日,最後の台南を制圧し,台湾全島を平定している。
 しかし,台湾征討軍が台南に入る2日前,その司令官たる北白川宮能久親王は,日本人には未知なる疫病に等しい,熱帯特有のマラリアに罹患してしまう。抗体やワクチンなどあるはずはなく,北白川宮能久親王は,「台湾平定の任務完了」の報を待つようにして,その1週間後の明治28(1895)年10月28日,「熱帯」に位置する台南の地で息を引き取ることになる。
 このような波乱に満ちた生涯故に,「北白川宮能久親王」は後の台湾において神格化され,各地に記念碑や神社が建立され,基隆に現存するのはその一つ。

「台湾軍」の柴五郎

台湾軍司令官 柴五郎

 台湾征討軍を始祖,台湾総督府陸軍部を前身として大正8(1919)年8月20日に発足したのが,その後終戦まで続いた「台湾軍」。
 台湾軍の初代司令官には第四代台湾総督の明石元二郎が兼任したが,同年10月26日に急逝。同年11月1日,第二代台湾軍司令官に就任したのが,四半世紀前の明治28(1895)年5月29日に台湾征討軍の参謀として台湾の地を踏んだ経歴をもつ,会津藩士の家に生まれた柴五郎。

旧台湾軍司令部

 台湾軍司令部の建物は台北市に現存している。
 しかし,現在でも中華民国(台湾)国防部後備指揮部によって使用されており,下掲の写真のように現況は垣間見ることしかできない。中華人民共和国の現実の脅威に晒され,日本とは違い緊張感のある台湾写真を撮影することすら憚られる雰囲気。ただし,かすかに赤煉瓦に花崗岩の白が映える東京駅に似た「辰野式」の建物を確認することはできる。
 竣工は大正9(1920)年というから,まさに第二代台湾軍司令官の柴五郎の時代である。

旧台湾軍司令部

旧台湾軍司令官公邸

 かつての台湾軍司令官公邸も現存している。
 建築は明治40(1907)年。台湾軍の創設とともに移管され,大正8(1919)年から台湾軍司令官の公邸として使用されたたというから,同年11月1日に台湾軍司令官に就任した柴五郎も,ここに住んだ(はずである)。

旧台湾軍司令官公邸
旧台湾軍司令官公邸

 和洋折衷の大規模な建物であるが,戦後,中華民国が接収され,主にビルマ方面で日本軍と戦った孫立人(将軍)の公邸となった。現在の台湾では「孫立人将軍官邸」と紹介され「陸軍聯誼廳」という名のレストランになっている。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。