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南沙諸島(Trường Sa) 日本の元最西端

南シナ海と南沙諸島


「新南群島」と呼んだ日本

 南シナ海(South China Sea,ベトナムでは「Biển Đông・東海 」と呼ぶ。)に浮かぶこの島嶼を南沙諸島と表記するのは中国風。国際的には英語のSpratly Islands が一般的で,領有権を主張するベトナムではQuần Đảo Trường Sa(チュオンサ群島)と呼ばれる。戦前の日本では新南群島という名がつけられていた。

西沙諸島の現状と過去

 同じ南シナ海の島嶼でも,中華人民共和国の海南島,ベトナムのダナン市に近い西沙諸島は,昭和49(1974)年1月20日以降,中華人民共和国が完全に実効支配し,現在に至っている。
 なお,戦時中,西沙諸島も日本軍が占領しており,その経緯などについては家計の拙稿をご参照。

領有紛争の”メッカ”

 これに対し,南沙諸島については,現在,ベトナム,中華民国(台湾),フィリピン,マレーシア,ブルネイ及び中華人民共和国が領有権を主張し,ブルネイを除く各国が島や岩礁の一部を実効支配している。
 日本でのマスコミ報道は,中華人民共和国が南沙諸島全体を実効支配しているかの印象を与えるが,意外に,同国は主要な「島」は支配しておらず,昭和63(1988)年3月にベトナムから武力で奪ったFiery Cross Reef(永暑礁)などの一部の「岩礁」を支配しているに過ぎない。しかし,その「岩礁」の周囲を埋め立て,滑走路などを建設して軍事拠点化していることが,周囲の国に脅威を与えている。

昨今の国会での質問と答弁

なぜか国会で話題になる南沙諸島の領有権

 このような現状にある南シナ海の南沙諸島の領有権問題は,日本の野党にとって,北方領土や竹島や尖閣諸島などより大きな関心事のようで,政府から何らかの言質を取りたいのか,あまり国益に関係があるとは思えない質問を国会で展開している。

辻元清美議員の質問

 例えば,第193回国会(臨時)において,辻元清美衆議院議員が平成29(2017)年1月23日付で,以下のような質問をしている。

 いわゆる南沙諸島における各国の領有権の主張と実効支配の状況に関する質問主意書

 スプラトリー諸島(いわゆる南沙諸島)における各国の領有権の主張と実効支配の状況について、以下質問する。
問一 領有権を主張している国はどこか。
問二 下記について実効支配している国はどこか。島嶼ごと、個別に明らかにされたい。また、国別に実効支配している島嶼数を示されたい。
 ノースデンジャー礁、ウエストヨーク島、ノースイースト砂洲、サウスウエスト砂洲、サウス礁、ランキアン砂洲、フラット島、チツ島、ロアイタ島、ティザード堆、ナンシャン島、イツアバ島、スビ礁、サンド砂洲、ペトレー礁、ユニオン堆、ナムイット島、シンカウ島、グリソン礁、ランズダウン礁、ディスカバリーグレート礁、ジョンソン礁、ガベン礁、ヒューズ島、ファイアリークロス礁、ミスチーフ礁、セカンドトーマス礁、クアテロン礁、ジョンソン南礁、イーストロンドン礁、ピアソン礁、ピジョン礁、セントラルロンドン礁、ウエストロンドン礁、クアテロン礁、アリソン礁、スプラトリー島、コーンウォリスサウス礁、ラッド礁、エリカ礁、コモドア礁、バークカナダ礁、インベスティゲーター砂洲、アンボイナ砂洲、マリベレス礁、アーダシア礁、プリンオブウェールズ堆、アレキサンドラ堆、ダラス礁、スワロー礁、プリンスコンソート堆、グレンジャー堆、バンガード堆、リフルマン堆
問三 いわゆる南沙諸島において、領有権の主張と実効支配とが異なる現状について、政府は、当事国同士で解決すべき問題であるという認識か。
問四 日本政府は、この問題について、特定の国の主張に肩入れするのでなく、全ての当事国に対して問題解決の努力を促す姿勢で臨むのか。またその場合、具体的に何をするのか。政府の方針を示されたい。

安倍総理大臣の答弁

 これに対し,平成29(2017)年1月31日,安倍総理大臣は,以下のように答弁をしている。

 衆議院議員辻元清美君提出いわゆる南沙諸島における各国の領有権の主張と実効支配の状況に関する質問に対する答弁書

問一から問四までについて
 政府として、お尋ねの諸島に対する関係国の領有権をめぐる主張の詳細について把握しているわけではなく、また、我が国は、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号)第二条に従い、新南群島(スプラトリー諸島)に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄しており、同群島の領土的な位置付けに関して独自の認定を行う立場にない
 いずれにせよ、我が国としては、南シナ海における問題は世界と海洋で結ばれたアジア太平洋地域の平和と安定に直結する国際社会共通の関心事項と認識しており、航行の自由の確保、国際法規の遵守、紛争の平和的解決といった基本的なルールを関係国が相互に確認し、実行していくことが重要と考えている。我が国としても、関係国とともに、引き続き様々な形で海上安全保障における協力の強化に取り組んでいく所存である。

山本太郎議員の質問 

 また,第189回国会(常会)では,山本太郎(当時)参議院議員が,平成27(2015)年9月24日付で,以下のような質問している。

 南沙諸島の帰属問題に関する質問主意書

 安全保障関連法制を整備する理由として、安倍内閣総理大臣は「日本を取り巻く世界情勢は一層厳しさを増しています」(2014年7月1日の安倍内閣総理大臣記者会見)と述べた。さらに、このような認識に関連して防衛白書(2015年版)は「南シナ海においても、一方的な領有権主張のもと、多数の岩礁において埋め立て等の活動を急速に推進するなど、周辺諸国などとの間で摩擦を強めているほか、戦闘機が米軍機に対し異常な接近・妨害を行ったとされる事案も発生している。このような中国の動向は、わが国として強く懸念しており、今後も強い関心を持って注視していく必要がある。」と記述している。
 このように、日本政府は日本近海である南シナ海の情勢は厳しさを増しているという認識を持っていると思われるが、日本を取り巻く世界情勢の悪化という認識、さらには安全保障関連法制の整備の必要性を考える前提として、南シナ海に位置する南沙諸島の領有権問題について、日本政府の見解を確認したい。なお、質問の趣旨がわかりかねるので答弁できない、という回答は厳に慎んでいただきたく要請する次第である。
1 我が国は、かつて南沙諸島を領有していたが、日本領編入の経緯及びその法的根拠を明らかにされたい。
2 南沙諸島の日本領編入に際する諸外国の反応について、政府の把握するところを明らかにされたい。
3 南沙諸島の日本領編入後の行政管轄について明らかにされたい。
4 一九五一年に署名されたサンフランシスコ平和条約により、日本は南沙諸島(新南群島)の領有権等を放棄したが、その後の帰属について、日本政府の見解を明らかにされたい。

麻生太郎大臣の答弁

 このような質問に対し,総理大臣代理の麻生太郎大臣は,平成27(2015)年10月2日付で以下のように答弁している。

参議院議員山本太郎君提出南沙諸島の帰属問題に関する質問に対する答弁書

 1から4までについて 
 
 我が国は、日本国との平和条約(昭和二十七年条約第五号)第二条に従い、新南群島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄しており、新南群島の領土的な位置付けに関して独自の認定を行う立場にない。その上で申し上げれば、新南群島の領土編入については、昭和13年12月23日に閣議決定されたものであり、政府として、当時の「諸外国の反応」について網羅的に把握しているものではないが、例えば、フランスは、外交ルートを通じて、我が国に対して新南群島の領土編入を容認しない旨申入れを行ったものと承知している。また、お尋ねの「行政管轄」については、その意味するところが必ずしも明らかではないため、お答えすることは困難である。

日仏それぞれの領有宣言

日本VSフランス

 山本太郎氏の質問に対する麻生太郎大臣の答弁にもあるように,日本は,この南沙諸島について,昭和13(1938)年12月23日,閣議をもって領土編入を決定している。
 現在と違って,当時,国際的に南沙諸島の領有権を宣言し,日本と争ったのは,蒋介石の中華民国…ではなく,またフィリピンを植民地としていたアメリカや,マレーシアやシンガポールを植民地としていたイギリスでもなく,唯一,フランスだった。
 麻生大臣が「例えば,フランスは,外交ルートを通じて,我が国に対して新南群島の領土編入を容認しない旨申入れを行ったものと承知している。」と答弁しているのはその趣旨である。
 フランスは,日本に先んじること5年前,昭和8(1933)年7月25日に南沙諸島の「先占」を国際的に宣言している。

ベトナム植民地支配とフランスの領有権主張

 遥かヨーロッパのフランスが南沙諸島の領有権を主張したのは,南シナ海(Biển Đông・東海)に長い海岸線を有するベトナムを植民地としていたからだが,その本気度は,ベトナム阮王朝の領有権を代弁していたに過ぎない西沙諸島とは異なる。
 西沙諸島に関するベトナム中部(安南/アンナン)及び北部(東京/トンキン)については,建前ではあってもベトナム阮王朝の領土であることを前提に,フランスはこれを「保護」する宗主国という立場にあった。
 これに対し,南沙諸島に関するサイゴンを中心としたベトナム南部(交趾支那/コーチシナ)については,1862年6月5日(文久2年5月8日)にベトナム阮王朝との間で締結されたサイゴン条約で割譲された直轄領,つまりフランス自身の領土であった。フランスの領有権主張の本気度の違いは,代理人か本人かの法的地位の違いによる。
 加えて,西沙諸島の領有権争いが伝承を含めた清王朝とベトナム阮王朝という”王朝時代”に遡るのに対し,南沙諸島の領有権争いの特徴は,近代まで「無主」だった島嶼について日本とフランス(ベトナム)のどちらが先に実効支配をしていたかという点にあった。

民間が先んじた日本

大正6年6月に始まる日本支配

 南沙諸島について,フランスが口を出すより前に先に手をつけていたのは日本だった。
 南沙諸島(新南群島)については,大正6(1917)年6月,台湾高雄市在住の民間人平田末治氏が”発見”したとされ,翌年以降,ラサ島燐礦株式会社という民間企業が同島嶼を調査,開発し,事業を行っていた。

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現在に残るラサ島燐礦株式会社

 ラサ島燐礦株式会社の”ラサ島”とは沖縄の沖大東島のこと。
 ”燐礦(リン鉱)”とは「グァノ」とも呼ばれ,海鳥の糞が珊瑚礁に長期間堆積して化石化したもので,化学肥料の原料として貴重かつ高価な資源。
 同社は,明治44(1911)年2月28日,沖縄ラサ島(沖大東島)でのグァノ採掘を目的に”合資会社”として設立され,大正2(1913)年5月1日に”株式会社”に組織変更している。
 現在のラサ工業株式会社(東証一部4022)である。

ラサ島燐礦株式会社による調査・開発

 ラサ島燐礦株式会社は,大正7年(1918)11月,第一次探検調査隊を編成して翌年3月まで南沙諸島の調査を行い,「長島」を含む5島を”発見”する。
 同社は,大正8(1918)年11月開催の株主総会において毎年10万円の支出の承認決議を得て,さらに,翌年11月から翌々年11年3月まで第二次調査を行っている。この調査と並行して,大正10(1920)年以降,イッアバ島(日本名:長島)を中心に巨額の資本を投資し,桟橋,軌道,倉庫,事務所及び宿舎などの永久的施設を設け,職員5名ないし7名のほかに医師1名,鉱夫60名ないし130名を常置して組織的にこれら諸島の開発に従事し,昭和4(1929)年4月までの間に合計11回汽船を往復させ,グァノ2万6000トンを積出している。
 ちなみに,国際連盟から委任されて大正9(1920)年以降,日本が統治していたサイパン島などの”南洋群島”に対し,南シナ海に浮かぶこの島嶼を新南群島と名付けたのも同社である。

民間主導の南沙諸島開発

 ラサ島燐礦株式会社は,大正12(1923)年6月5日,横浜税関長に宛て,新南群島から搬入したグァノを,税務上,”輸入”ではなく”内航”として扱って欲しい旨の請願書を提出している。
 これが「照会」という形で外務省に渡った。このような民間企業からの働きかけが,外務省をして「新南群島」を意識するきっかけにはなったようだ。

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 大正14(1925)年2月17日にも,ラサ島燐礦株式会社は,幣原喜重郎外務大臣に対し,多額の投資をしているので万が一の場合の保護を「具申」している。 
 しかし,当時,日本は国として領有化に積極的に動くことはなかった。

フランスによる領有宣言

世界恐々に起因するラサ島燐礦株式会社の撤退

 昭和4(1929)年4月,世界恐慌の煽りを受け,ラサ島燐礦株式会社は,南沙諸島での燐鉱採掘事業からの撤退を余儀なくされ,設備など放置されたまま,南沙諸島は再び”無人島”になった。

フランスが「先占」を主張

 昭和8(1933)年3月27日,満州への進出に関して,日本は常任理事国を務めていた国際連盟(League of Nations)を脱退する。
 この国際情勢を逃さず,フランスは,同年7月25日,突如,南沙諸島について国際的に「先占」を宣言するに至るのである。
 下の写真は「問題の南洋諸島 仏国先占を声明」を報じる翌26日付け東京朝日新聞の記事。

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日本の対応

外務省の対応

 フランスの突然の領有宣言に対し,当然に自領と認識していた日本は憤った,というより”しまった”と慌てた。
 改めて南沙諸島を顧みたら,軍事的に重要な位置にあり,特に海軍がこれを欲した。
 日本は,昭和8(1933)年8月15日の閣議決定を経て,同月21日,駐仏澤田代理大使がフランス政府に対し,異議を申し入れた(下の写真はそれを報じたもの)。
 もっとも,フランスやその同盟国イギリスとの軋轢を危惧した日本政府(特に外務省)の方針は,異議は唱えるが,領有権問題については「未決」のまま放置するというものだった。
 そのためか,昭和4(1929)年4月以降,新南群島での「グァノ」の採掘事業から撤退していたラサ島燐礦株式会社が,フランスによる領有宣言後,外務省に対し事業再開を申出ていたが,フランスとの関係悪化を恐れた同省がこれを却下していた。

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やはり民間主導

 ところが,昭和10(1935)年10月,南沙諸島を”発見”した前述の平田末治氏らが発起人となり,「グァノ」の採掘販売,一般の漁業その他海産物の漁獲得及び海産物の製造販売などを目的とした開洋興業株式会社を台湾高雄市に設立し,新南群島での事業に乗り出したのである。
 これには海軍と台湾総督府が資金的な援助をしていた。
 ここに海軍が出てくるのは,南シナ海における新南群島が占める位置が,主に潜水艦の基地として極めて重要だったからである。
 なお,当時の商法では(実に平成2年改正により1人でも可となるまで),発起人すなわち設立時株主の人数が7人以上と法定されていたため,開洋興業株式会社の株主も平田氏を含めた個人実業家7名となっている。

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国策企業の南洋開発株式会社へ

 主に海軍からの要請があり,日本政府(主に外務省)は「未決」という方針を変えるに至る。
 昭和13(1938)年6月25日,平田氏の開洋興業株式会社が行っていたリン鉱採掘販売事業の一切を対価25万円で南洋興発株式会社が譲受けている(下の写真はその契約書)。
 両社は商号は似ているが,前者は(海軍や台湾総督府の支援があったとはいえ)民間企業であるに対し,後者は「北の満鉄,南の南興」とも称された国策企業である。

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南沙諸島の開発が国策事業へ

 国策企業たる南洋興発株式会社は,大正10(1921)年11月29日,第一次世界大戦後に日本の委任統治領となったサイパン島を含む”南洋群島”の興業・開発を目的にサイパン島に本店を置いて設立された特殊会社で,東洋拓殖株式会社が40%の株式を保有している。
 この東洋拓植株式会社こそが,明治41(1908)年12月18日,京城府(ソウル)に本店に設立された特殊会社である。朝鮮総督府が約40%を出資し,主に朝鮮半島での農業,工業,鉄道及び電力の開発・振興を自社及び子会社を通じて行っていたが,大正6(1927)年に本店を東京に移転するとともに,その事業範囲を,南方へ広げていた。
 南洋興発株式会社は,サイパンなどの南洋群島から”新”南群島に進出したものであるが,前述のように,昭和13(1938)年6月25日付けでのリン鉱採掘販売事業譲受けている。
 同社は,下掲の資料のとおり,同月30日,米内光政海軍大臣に対しこれを報告するとともに,新南群島における権益及び投資の安固なることを求めている。これを受けた海軍軍務当局は,「全群島における・・・貴社の事業に対して保護を加えるは海軍当然の任務にある」と回答しているのである。
 こうして昭和13(1938)年6月25日以降,新南群島(南沙諸島)における興業・開発は,国策事業となった。

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実効支配の強化

 他方,昭和13(1938)年8月22日,台湾総督府が,平田氏の開洋興業株式会社に対して依頼していた日本領有の記念碑「帝国先占碑」がイッアバ島(長島)に完成,その除幕式を行うなど,ソフトな実効支配も進めていった。

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日本による領有決定

昭和13年12月23日 閣議決定

 「未決」からの方針転換後,このような官民軍挙げての実効支配を進めた上で,日本は,昭和13(1938)年12月23日,南沙諸島を閣議「外甲116 号閣議決定」をもって日本領土に編入を決定するに至った。
 ただし,この時点では,閣議決定したが,報道規制も敷いて内外には秘匿した上で,フランス(や英米)による反発に対し万全を期すべく,対外的に「宣言」する機会を伺っていた。

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当時のヨーロッパ情勢

 日本が閣議をもって南沙諸島の領有を決定した昭和13(1938)年12月23日は,大戦前。
 ドイツがポーランドへ侵略し,第二次世界大戦の火蓋が切られるは,1年後の昭和14(1939)年9月1日。
 日本,ドイツ及びイタリアの三国軍事同盟は,2年後の昭和15(1940)年9月27日。
 ただし,2ヶ月前の昭和13(1938)年9月29日,「ドイツ系住民が多数を占めるチェコスロバキア・ズデーテン地方の自国への帰属」を主張するヒトラーに,イギリスとフランスが宥和したミュンヘン協定が成立しており,大戦への導火線に火が付けられてはいた。

当時のフランス

 ヒトラーに宥和したとはいえ,フランスは列強国の一つとして健在。
 当時のフランスは,ベトナムを含め世界に植民地を有し,新南群島について日本と領有権を争う一方,昭和12年(1937)年7月7日の盧溝橋事件以降,日本と交戦状態にあった蒋介石の中華民国をベトナムを通じて支援していた。

海南島の占領

 日本がフランスを含め対外的に南沙諸島の領有を宣言した決定的な要因は,昭和14年(1939)年2月23日に完了した海南島(及び西沙諸島)の占領である。この海南島から,新南群島(南沙諸島)に対して陸海軍な展開が可能となった。

台湾高雄市の管轄下へ

 日本は,昭和14(1939)年3月30日,行政上の措置として「新南群島」を台湾総督府が高雄市の管轄下に置く決定をした上で,翌31日,澤田廉三外務次官がアンリー駐日フランス大使に「領有」を通告した。
 下の写真は,これに関する同年4月18日付け官報。

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国際法などの調査・検討 

 日本は当時も無法国ではない。
 領有化の宣言前,国際法に基づき下記観点から慎重な検討を重ねていたことが,昭和13年(1938)年9月から同年10月にかけて作成された下掲の資料からも窺い知ることができる。

  1. 新南群島問題に関する法律上の見解

  2. 新南群島を帝国領土に編入の手続に関する意見

  3. 新南群島の所属決定の国際法上の説明

  4. 新南群島に関する日仏紛争を仲裁裁判に付託することに関する法律上の意見

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領有宣言後の実効支配

”フランス”の排除

 こうして日仏による領有権宣言が併存することになったが,日本はさらに官民軍を挙げて実効支配を進めた。
 南洋興発株式会社が,昭和14(1939)年4月26日付けで作成し,親会社の東洋拓植株式会社が報告した下記「南洋興発株式会社の新南群島燐鉱事業経営に関する件」に,当時の新南群島(長島)について下記のような記述がある。

住民も極めて少なく日本人7人,フランス人2人,台湾人2人,安南人(ベトナム人)10数人が居住する状態なり。

 未だ南沙諸島には,植民地支配していた安南人(ベトナム人)を中心にフランス勢力が残存していた。
 日本は,”主権”に基づいてこれを排除する行動を取ることになる。
 もっとも,この後に述べる当時のフランス本国に生じた事情により,フランス領インドシナ政府にこれに抗う力はなかった。

国民への宣伝・啓蒙

 一般国民に馴染みの薄い新南群島について,国民に対する宣伝・啓蒙も行われている。
 例えば,内閣情報部が発行する昭和14(1939)年10月4日号の「写真週報」に,当時の新南群島(イッアバ島・長島)の様子が掲載され,前述の昭和13(1938)年8月22日に除幕式が行われた日本領有の記念碑「帝国先占碑」も紹介されている。

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フランスのドイツへの降伏

 日仏間の南沙諸島をめぐる領有権問題は,フランス側の事情が激変し,日本に有利に傾斜する。
 昭和15(1940)年5月10日以降,ドイツ軍がフランスに侵略,同年6月22日,休戦協定によりフランスが降伏している。

北部仏印進駐

 当時,ドイツは日本の同盟国ではないが(それは同年9月27日以降),同年8月30日,日仏間で松岡・アンリー協定が成立。当該協定に基づき,日本軍は,同年9月23日以降,ベトナム北部に進駐している。いわゆる北部仏印進駐。
 もっとも,松岡・アンリー協定は,フランスの主権を尊重することを大前提としており,南沙諸島(及び西沙諸島)の領有権については触れることがなかった。
 日本が新南群島(南沙諸島)に対して”主権”を行使していったのは,以上のような力関係の下であったため,フランス側と武力衝突が起こることはなかった。

実効支配の完了

 日本は,南沙諸島に設置されたフランスの設備などを撤去と,在留していたフランス人やベトナム人の退去を求めた。
 結局,昭和14(1940)年10月11日,再三の退去勧告にも関わらず,最後まで抵抗していたフランス人「ドミート」とその配下のベトナム人が自主的に退去することとなり,これをもって在留するフランス人及びベトナム人の撤退が完了する。また,フランスが設置してた国標や設備についても,撤去が完了している。
 この経緯は,下記の「仏人及び仏施設撤収問題」にまとめられている。
 こうして,米英との開戦前の昭和14(1940)年10月11日,日本による新南群島(南沙諸島)の実効支配が完了した。

戦後

日本国との平和条約による放棄

 昭和26(1951)年9月8日,日本は連合国48国との間で「日本国との平和条約(いわゆるサンフランシスコ平和条約)」を締結しているが,当該条約第2条(f)項は,次のように規定している。
 このサンフランシスコ平和条約が昭和27(1952)年4月28日に発効することで,日本が,南沙諸島に対し有していた「権利,権限及び請求権」を放棄することになったのである。

Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Paracel Islands
 日本国は,南沙諸島及び西沙諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する。

現在に繋がる領有権争いの始まり 

 確かに日本は南沙諸島に対する権利を放棄はした。
 しかし,放棄した権利がどの国に帰属するかは,サンフランシスコ平和条約には規定されていない。加えて,もともと「無主」だったという背景もあって,現在の諸国間での南沙諸島の領有権争いには,歴史や理論ではなく,軍事力の優劣のみが反映されてしまっている。

長島(イッツアバ島)の現在

 日本も拠点を置いていた「長島(イッツアバ島)」は,昭和21(1946)年12月12日,蒋介石の中華民国軍「太平号」が占領し,ここを「太平島」と名付け,以後,中華人民共和国の侵攻を許すことなく,現在でも中華民国(台湾)が実効支配している。

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西鳥島の過去と現在

 南沙諸島の最西端(北緯08度38分30秒 東経111度55分55秒)に,日本領時代「西鳥島」と呼ばれていた島がある。
 現在の日本領の最西端は与那国島だが,当時はこの「西鳥島」が日本で最も日の出が遅い場所だった。
 現在,この島は,ベトナムが実効支配し,下の写真のように,国標の設置し,衛兵が交代で常駐している。ベトナムではチュオンサ島(Đảo Trường Sa),英語ではスプラトリー島(Spratly Island)と称され,それぞれの南沙諸島(チュオンサ諸島,スプラトリー諸島)の名称の由来となっている。

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日本の最西端に流れ着いたベトナム難民

 現在の日本の最西端は,沖縄の与那国島である。
 与那国島が最西端となったのは,西鳥島(南沙諸島)を放棄したサンフランシスコ平和条約ではなく,昭和47(1972)年5月15日に沖縄が日本に復帰したためである。
 その与那国島に,昭和52(1977)年5月1日午前10時頃,3トンという中型トラック程度の小型漁船に乗った27人のベトナム人が辿り着いた。下の写真は翌2日付け日経新聞の記事。

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 昭和50(1975)年4月30日,首都サイゴンが陥落し,北ベトナムに飲み込まれるように消滅した南ベトナム。この南ベトナムからは,船で逃げ出す難民(ボートピープル)が出た。
 「ベトナム難民が日本で好遇されている」というニュースをラジオで聞いて日本を目指したようだ。
 それまで,例えば昭和50(1975)年5月12日,米国船グリーンが南シナ海で漂流中に保護し日本に上陸したなどの事例はあったが,自力で日本を目指し,日本に上陸したのは,僅か5年前に日本の最西端となり,ベトナムに最も近くなった与那国島が最初だったようだ。

東京で弁護士をしています。ホーチミン市で日越関係強化のための会社を経営しています。日本のことベトナムのこと郷土福島県のこと,法律や歴史のこと,そしてそれらが関連し合うことを書いています。どうぞよろしくお願いいたします。