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日記(出勤中に遅刻してでも、と)

カメラを取り出したくなるような、雪でしたね。

冬はつとめて
最近なんだか早起きになってしまって6時台に目が覚める。
たいていは二度寝の幸せを夢の中で噛みしめるのだけど、目がさえてしまうこともしばしば。
火桶を持ってくるような従者を持たない私は、なかやまきんに君のYoutubeを流しながら一緒にスクワットをして身体を温める。彼の「太陽ー!」という歓喜の叫びを聞き、適度な疲労と心地よさのなか朝の仕度をする。太陽というのはイメージするだけでも心が温まるから不思議だ。

少しくらいの雨では自転車を選ぶ。15分くらいの通勤距離を泥除けの付いていないスポーティーな自転車で移動する。お尻はびしょびしょだ。ハンドサインと間違われそうな位置に片手を置き、手袋を泥除けにして進む。

途中に桜がある。近くの植え込みには季節の花も植えられていて、ここを通るのが楽しみだったりする。向かいの八百屋は開店準備で忙しそうだった。

こんなに揃って下を向くもんなんだなぁと、パソコンの画面で初めて知った。直接見ている時には気づかなかった。わたしの目は当てにならないな。

わたしの持ち歩きカメラはsigmaから出していたdp3 Quattroだ。
50mm f2.8でfoveonセンサー。APS-Cサイズなので換算75mm。中望遠と言われる画角の大きなコンパクトデジタルカメラ。コンバージョンレンズも付けて使っているので1.2倍の換算90mm。

何が言いたいのかというと、わたしの目より遠くのものをハッキリと記憶してくれる。あとから見直して、本当はこんな風だったんだなとよく思う

メジロの羽が濡れた質感も、カメラを通してしか見ることができなかったろうな。

何か越しにしか知覚できない、とらえられない、認識できないという事がたくさんあるなと思う。広く一般化できるそれ。

ただし、ビジネス書や自己啓発本を武器や羅針盤にすることは除く

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