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忠義を貫いた知の武将「楠木正成 (くすのき まさしげ) 」

#先日の余談

ちょっと調べることがあったので、書き残しておく。 

鎌倉時代終焉の激動の時代、その君主(後醍醐天皇)や室町幕府を築いた足利尊氏の存在が強烈にも関わらず名が残るほどの影響力や実績を残した武将、楠木正成。

皇居、二重橋を正面に見据えるように馬に乗る楠木正成像があり、兵庫県神戸市の湊川公園では荒ぶれる馬に乗る楠木正成像がある。

・後醍醐天皇(ごだいごてんのう):96代天皇、南朝の初代天皇、鎌倉幕府倒幕の首謀者。
・南朝(なんちょう):大覚寺統(だいかくじとう)とも呼ばれ、北朝である持明院統と対立し天皇家が二分されるも、結果として天皇家の系譜は北朝の流れとなる。
・足利尊氏(あしかが たかうじ):室町幕府の初代征夷大将軍。
・太平記(たいへいき):作者、成立ともに不詳。歴史書
・増鏡(ますかがみ):作者不詳、南北朝時代。歴史物語
・後愚昧記(ごぐまいき):北朝方の公家、三条公忠(さんじょう きんただ)の日記


天皇家が二分される波乱の時代である「南北朝時代」の始まりに楠木正成は後醍醐天皇の武将として鎌倉幕府の倒幕(元弘の乱 1331年〜1333年)に尽力。同じく尽力していた足利尊氏は倒幕後に後醍醐天皇から離れていった。(その後、足利尊氏は室町幕府を設立)

鎌倉幕府 → 建武の新政 → 南北朝時代 → 室町幕府

結果的に、南北朝時代(1336年〜1392年)の天皇家は南朝は後醍醐天皇を含め4代のみ、北朝6代目の後小松天皇が100代天皇として系譜を継いでいる。

楠木正成は後醍醐天皇に仕え、その確固たる忠誠心(尊王)による言動から「七生報国」 や「菊水作戦」という言葉に繋がる。

・七生報国(しちしょうほうこく):何度生まれ変わっても、国のために尽力する意味。後醍醐天皇から離れた足利尊氏との戦、兵庫県湊川で敗戦を向かえる際、楠木正成が自害する際に用いた言葉。
・菊水作戦(きくすいさくせん):戦艦大和が沖縄に向かう際、楠木正成の家紋にある菊水紋を用いた作戦。七生報国から察すると帰る場所はない決死の戦であったことがうかがえる。


楠木正成の旗には菊水紋が描かれている。菊花紋章は皇室の御紋であるが、82代天皇である後鳥羽天皇から菊の紋を用いられるようになった。その後、優れた家臣には天皇から菊紋を贈る慣習があった。

後醍醐天皇から菊紋を授かった楠木正成だが、そのまま使用するには畏れ多いということから水紋と掛け合わせて菊水紋が生まれたとされる。
信貴山の麓にある平群町(へぐりちょう)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)には当時の使用された「菊水の旗」が保管されており、元弘元年(1331年)9月10日の銘がある。他にも、湊川の戦い(最期の戦)を描いた資料には菊水紋の御旗を上げた楠木正成が描かれているのがみられる。

 『本朝百将伝』明暦2年(1656年)大西与左衛門 著
国立国会図書館蔵より

忠誠心を絵に描いたような人物像なんだろう...。三国志で言うと劉備への忠義を貫いた「関羽」だな。(ワンピースだと「ジンベイ」か...)
ただ、その戦のスタイルは力強い銅像から連想される剛腕を振るう戦よりも、策略を練った戦術に富むもので「知の武将」とされる。

勝てば官軍、歴史は正義が複数交差するあいまいなもの。鎌倉時代では、当然、楠木正成は悪の権化のような扱い。後醍醐天皇も悪政の限りを尽くした君主のように物語られている。

後醍醐天皇は、当時の慣習に捉われることなく、新たなものを取り入れることに柔軟で、独自の政治観を持っていたようだ。今でも使う「無礼講」という言葉は後醍醐天皇が起源らしく、既成の慣習を飛び越えて仲間を集める機会を当時の宴を通じて行ったとされる。(破仏講とも)

鎌倉幕府末期と江戸幕府末期は重ねられることが多く、明治時代の教科書では、楠木正成は知に富み人望に恵まれているにも関わらず自らを第一とせず、天皇への忠義の姿勢が広く語られたようだ。

・楠木正成を称える湊川神社は明治時代に建立(明治元年に明治天皇による勅命)。
・皇居外苑にある楠木正成像は明治時代に制作(明治33年に住友が献納)され、その像は昭和時代に入ってから紙幣(五銭紙幣)にも描かれた。
・湊川公園にある楠木正成像は「楠公さん」と親しまれていた昭和時代に制作(神戸新聞が発起、多くの寄付が寄せられた)。

湊川神社

追記:お手伝いしていた手ぬぐいができました。平成30年(2018年)「時代祭」の楠公上洛列にて用いられます。


#楠木正成 #楠正成 #後醍醐天皇 #歴史  #忠義 #知

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