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「村の寄り合い」と「公共の福祉」を守る憲法規定・・・農業委員会制度とはなにか?

前回の記事・・・「農業をしたいと相談に行くと農業委員会の窓口ですれ違いになる理由」でも述べた通り、
農地の貸し借りや売買には、農業委員会の承認が必要です。

この仕組みが役所の仕組みに「慣れて」いない都会人側からすると「閉鎖的」に見えるわけです。
しかし、ある程度、現在のあり方はやむをえない面があるのです。

財産権の範囲は「公共の福祉に適合するように」法律で定めることになっている

まず、農地の貸し借りや売買を農業委員会が承認すると言う仕組みの根拠は、憲法第29条に求められます。
憲法29条は「財産権は侵害してはならない」と述べています。
しかし、同条第3項には「財産権の範囲は公共の福祉に適合するよう法律でこれを定める」としています。
実はこの規定がないと、公害や環境の基準というものも定めることが出来ません。
また、いわゆる「ゴミ屋敷」の撤去作業も進められません。
財産権と言うものを認めないと「盗み」を罰する事もできません。その人の「財産」は、財産として認めると言うのはいろいろな法制度の根本なのです。
しかし、無制限に財産権を認めると混乱が起きるから、法律で「それ以上やってはダメ」と言う縛りを作ろうと言うのが憲法第29条第3項の規定なのです。
自分の土地に自分の所有物だった有害物質を捨てたら、地下水や川・海などを汚染するかもしれない、すると公共の福祉に反するから規制しよう、
自分が買ったものを自分の家や土地に捨てずに積み上げておいてもいいと言っても度が過ぎると衛生や悪臭、火災などの問題が起きる、これも公共の福祉に反するから、著しい場合にはゴミ屋敷の撤去作業を行政が出来るようにしよう
・・・
と言うような考えで公害やゴミ屋敷規制の法律・条例を作ることが出来ると言うのが、憲法第29条第3項なのです。
農地の売買・賃貸についても、自分の財産だから自由に使ってよい、取引もしてよいと言うことになると、農地を農業以外の目的に使われてしまう、そうすると、食糧自給や田園景観保全に影響が出る、これは公共の福祉に反する、
これが農地取引についての制限が設けられている理由だと考えられます。

そもそも「農業『委員会』」の「委員会」とはどういう意味か?

さて、農地の貸し借りや売買について、公共の福祉の観点から一定の制約が必要だとして、それを農業委員会が司っているのはなぜだと考えられるでしょうか?
この点について述べるにあたって、そもそも、「農業委員会」の「委員会」とはどういう意味かを説明したいと思います。
役所に行くと、農政課とか、福祉課などのように「課」がつく窓口と「農業委員会」や「教育委員会」のように「委員会」がつく窓口があります。
この「委員会」とつく部署は、行政委員会と言われるもので通常の行政機関とは異なった性質を持っています。
学校の社会科や公民の時間に「三権分立」について教わったことを思い出して下さい。
国には立法・行政・司法、自治体にも立法・行政機関があります。
立法府である議会は多数決で決まり、多数派となった政党(与党)が事実上の決定権を持っています。
行政府については、国の場合、内閣総理大臣は、国会の議決、自治体の場合、知事や市町村長は直接選挙で選ばれます。
こうして選ばれた首長の方針に従って、政治が行われるのが民主主義の理念に適うものだと考えられています。
ところで、その選挙を司る選挙管理委員会が議会の多数派や首長の意向に左右されてしまうと、公正な選挙は望めません。
そこで、「行政委員会」と言って、独立性の高い機関が選挙を司るようになっています。
このように「行政委員会」は、議会や行政府の長の意向に左右されない独立性の高い機関だと言えます。
国の場合、行政委員会ではなく、憲法機関と呼ばれ、現在の日本国憲法のもとでは、会計検査院がこの憲法機関となっています。
(会計検査が、議会や大臣の意向に左右されないようにするため、やはり独立性の高い機関として置かれていると考えることが出来ます。)
農業委員会もこうした行政委員会の一つで、「独立性」が高い組織なのです。

「村の寄り合い」を近代法の言葉で述べたものが「農業委員会」

では、なぜ、農業委員会と言う行政委員会が設置されるようになったのか?
これには、戦国時代に遡る歴史があるように思います。
戦国時代は、ある土地が、誰(どの武士)の領地なのか、誰(どの農民)の田畑なのか、争いが絶えない時代でした。
略奪も横行し、合戦が起きそうな場合、農民は土中に鍋釜などを埋めて避難した(そうでないと避難中に鍋釜を盗む人が出てきた)と言う事もしばしばでした。
こうした時代が終わり、泰平の世となった後、「ムラウチ」つまり、村の内側の事は、その村の寄り合いで決めると言うことが認められるようになりました。
村の寄り合いは、「本百姓株」を持つ農民で構成されていました。村に新参者がやってきた場合、その新参者に「本百姓株」を与えるかどうかも寄り合いで決まっていました。
こうした「寄り合い」の仕組みを近代法の言葉で述べたものが行政委員会である農業委員会だと考えると、現在の制度は説明できるように思います。

万人の万人に対する闘争を禁止した秀吉の惣無事令と刀狩り

先にも述べたように戦国時代は、どの土地がどの武士の領地で、どの農民の田畑なのか、争いが絶えない時代でした。
豊臣秀吉の惣無事令や刀狩りは「私戦」、つまり、武士や農民が土地を巡って、自分たち自身で争うことを止めさせるものでした。
武士は御公儀(秀吉の時代には、豊臣政権、江戸時代以降は徳川幕府)が決めた土地を領地とすること、農民は「検地」によって決められた土地を耕作し、一定の年貢を武士に支払うことが決められました。
農民は自分で土地を守り、略奪者と争わなくてよいように武士が治安維持を担当する、その代価として年貢を払ってほしい、ただ、「ムラウチ」の事は農民が決めてよい、
ホッブスは自然状態では「万人の万人に対する闘争」があり、その闘争状態を終わらせるものとして「国家」が要請されたと述べました。
秀吉や家康が作った「御公儀」=「全国統一政権」は、こうしたホッブス流の社会契約の日本的なあり方と考える事もできます。
実際、見沼菜園クラブのあるさいたま市の農業委員には戦国時代に遡る農家の家柄の人もいらっしゃいます。
農業委員会=村の寄り合いを近代法の言葉で述べたものと言うのは、現実にも合っているのではないでしょうか。

「曲がり角」かもしれないが、どっちにしても、「承認機関」は必要になる

農業委員会制度は、曲がり角を迎えているかもしれません。
どの地域でもそうだと思いますが、今まで自分たちが暮らしてきた場所に「新参者」が来る場合、旧住民からするとその「新参者」に今までの暮らしが脅かされないか不安になるのはやむをえないと思われます。

農村の場合、農地をきちんと管理してもらわないと困る=耕作できる人でないといけない…と言うことで、農民だけが選挙権と被選挙権を持つ、つまり、農民が投票して、農民の代表者を選ぶ「農業委員会」が農地の貸し借り・売買を承認してきた背景には、こうしたことがあったと思います。

現在は、農業委員は首長の任免制、つまり、市町村長が農業委員を任命したり辞めさせたりする制度に変わっています。

農業の担い手が減り、「新参者」である都市住民でもやりたいと言う人に農地を使ってもらった方がよいと言う発想が、こうした制度変化の背景にあると思います。

今後、戦国時代に遡る農家の家柄であっても、その家に生まれた子どもが、親の跡を継いで農家になってくれるとは限りません。

農村部にも農家と都市住民が混じり合って住む状態になってきています。

ですから、農業委員会制度を何らかの形で変える、あるいは廃止すると言う動きが出てきてもおかしくはないと思われます。
ただ、農地を農地として使い、食料自給や田園景観保全と言う「公共の福祉」に適した状態を維持するとなると、仮に農業委員会制度が廃止されたとしても貸し借り・売買の「完全自由化」は難しいでしょう。

農業委員会がなくなればなくなったで、農業委員会に代わり農地の貸し借り・売買を司る何らかの機関が必要だと思われるからです。

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