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「冥土の飛脚」の「菜」はどんなものだったのか

近松門左衛門の「冥土の飛脚」(1711年上演)に「背戸に菜を摘む一七、八が」と言う文言が出てきます。

この「菜」はどんなものだったのでしょうか。

季節は「空に霙の一曇、霰、交じりに吹く木の葉ひらり」とあり、枯れ葉が舞う晩秋の時季だと思われます。

場所は「畦道をすぢりもぢりて藤井寺」とあり、現在の大阪府藤井寺市近辺と思われます。

「菜を摘む」と言うと百人一首にもある「君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に 雪は降りつつ」が有名です。

昔は「立春」以降が「春」です。この歌は、新暦2-3月頃、まだ雪が降る時季に、野原で「菜の花」のツボミを摘んでいると思われます。

萬葉集冒頭の「この岡に菜を摘ます子」も春にツボミを摘んでいる情景を歌ったものと思われます。

萬葉集冒頭歌の場合、「御籠よ、御籠もちよ、御ふぐしよ、御ふぐしもちよ」(籠とふぐし[=掘り具])を持っていると歌われています。

菜の花を摘むのに「掘り具」は要らなそうですが、菜の花に混じってカブのように根を食べるアブラナ科の植物が自生していたのかもしれません。

古事記の仁徳天皇の記事に出てくる「あおな」はカブの事だと言われていますので・・・。

さて、百人一首や萬葉集冒頭歌は、春の情景を詠んでいるようですが、「冥土の飛脚」で登場するのは晩秋に摘まれる「菜」です。

かなり時代は遡りますが、魏志倭人伝に「倭国、土気温暖、冬夏、茄菜を生ず」と書かれています。

魏志は三国時代の「魏」の史書で、「魏」は中国の北部にあります。洛陽の緯度は岡山県と同程度だそうですが、現代でも洛陽の冬の平均気温は東京より5℃程度低く、相当寒いようです。

魏志倭人伝の「土気温暖」から、すぐに邪馬台国九州説を連想しがちかもしれません。ただ、冥土の飛脚にもあるように近畿地方であっても晩秋から冬に「茄菜=食用植物」は収穫できます。

寒い魏からみた場合、九州はもちろん近畿であっても倭は冬でも暖かく、食用植物が採れる場所に見えたのかもしれません。

蛇足ですが、冥土の飛脚の「菜」が出てくる藤井寺近郊に応神天皇陵があります。

応神天皇を生んだ神功皇后についての日本書紀の記述と魏志倭人伝の記述がちょうど120年ずれていることから、江戸時代の学者・新井白石は、神功皇后=卑弥呼説を唱えています。

ただ、魏志倭人伝の「茄菜」はおそらく山野に自生している植物で栽培植物ではないと思われます。

「冥土の飛脚」に登場する「菜」は「背戸(=裏庭)」にあります。年貢や販売用に農地で育てている農産物ではなく、家屋の周囲の「家庭菜園」のような場所で自家用に育てている野菜と思われます。

「小松菜」の命名は徳川吉宗さんだそうで、その頃、野菜の品種改良が進んでいたと思われます。

冥土の飛脚は、それより少し前、6代将軍・家宣さんの時代に上演されています。

西日本の漬け菜(アブラナ科の葉菜類)と言えば、広島菜や大阪シロナなどがあります。

漬け菜類の地方品種は、秋まき冬どりのものが多いので、冥土の飛脚に出てくる「晩秋に摘まれる菜」の情景に一致します。

冥土の飛脚が上演された頃は、まだ地方品種が完全に成立していなかったかもしれません。

ただ、広島菜や大阪シロナなどに「向かう途中」のものだった可能性はあります。

そういう風に考えていくと、冥土の飛脚の「菜」は地方品種に向かって「発展途上」だった種類の漬け菜類だった、当時は、そういう「菜」が自給用家庭菜園で育てられていたと考えることができそうです。


2週間予報値は2月までの予想が入ってきました。
最低気温-14℃とか-6℃とかの予想は消え、-4℃程度のものになっています。ただ、今まで1/28頃には暖かくなりそうだったのが、2/1も最低気温-3℃と、冷え込む期間が長引きそうな予想に変わってきています。

いつ頃から春を予感できる時季になるのでしょうか。


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