都会の人と農村部の人の間のトラブルと「霊」のお返し

「物の霊、特に森の霊や森の獲物である『ハウ』について、エルスドン・ベストのマオリ族の優れたインフォーマント(情報提供者)」の一人、タマティ・ラナイピリが、全く偶然に、何の先入観もなしに、この問題を解く鍵を我々に与えている。

私は『ハウについてお話します。ハウは吹いている風ではありません。全く、そのようなものではないのです。

仮にあなたがある品物を(タオンガ)を所有していて、それを私にくれたとします。

あなたはそれを代価なしにくれたとします。私たちはそれを売買したのではありません。

そこで私がしばらく後にその品を第三者に譲ったとします。

そしてその人はそのお返し(【ウトゥ】)』として、何かの品(タオンガ)を私にくれます。

ところが彼が私にくれたタオンガは、私が始めにあなたから貰い、次いで彼に与えたタオンガの霊(ハウ)なのです。

(あなたのところから来た)タオンガによって、私が(彼から)受け取ったタオンガを、私はあなたにお返ししなければなりません。

私としましては、これらのタオンガが望ましいもの(rave)であっても、望ましくないもの(kino)であっても、それをしまっておくのは正しい(tika)とは言えません。

私はそれをあなたにお返ししなければならないのです。それはあなたが私にくれたタオンガのハウだからです。

この2つ目のタオンガを持ち続けると、私には何か悪いことが起こり、死ぬことになるでしょう。

このようなものがハウ、個人の所有物のハウ、タオンガのハウ、森のハウなのです。』

『贈与論(マルセル・モース ちくま学芸文庫)』」

農村部の人と都会人が出会った時、農村部の人が都会人に何かを「してあげた」とします。

あるいは都会人が農村部の人に何かをするつもりがなくてした事が、農村部の人からみると自分が何かをされたように感じられたとします。

この時にお互いの感じ方の「違い」を、片方が「ハウ(霊)」が与えたのに返ってこないとか、望ましくない霊が与えられたと言う理屈で説明してみるのは面白いかもしれません。

ところで、聖書には「私は主から受けたものをまたあなた方に伝えたのである」と言う言葉があります。

イエス・キリストが十字架の前に、パンとぶどう酒を弟子たちに分かち与えた、同じように司式者が会衆に分かち与える、聖礼典制定の言葉ですが、この時も「ハウ」が移動していると言えないでしょうか?

人は神様から受けたもの(ハウ)を神様には返せません。そこで別の誰かに与えることで返そうとします。貰った人は、また別の誰かに与えることで貰った「ハウ」を返すようになる。

まあ、日本的な格言では「情けは人の為ならず」みたいな事かもしれませんが、

農村部と都会の人たちの間にトラブルが生じた時、諸々のハウの引き受け手の中央銀行みたいな「神様」を想定してみるみたいな考え方は、すぐに両者とも納得しないかもしれませんが、どこかで「そう言うんじゃダメですか?」って聞いてみる事はお互い冷静になる上で有効かもしれませんね。


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