モノの「霊」が持つ魔力による復讐~モースの贈与論とシェークスピア「アテネのタイモン」

「タオンガや純粋に個人的な所持品すべては霊的な力としてのハウを持っている」

マルセル・モースの「贈与論」にはこのような記述が出てきます。

タオンガと言うのは、マオリ族の人たちがやり取りする品物の事らしいですが、「モノ」の交換と言うのは、実は「モノ」が持っている「霊」のやり取りにつながっていると言うのは、非常に示唆に富む観点だと思います。

「あなたは私に一つのタオンガを贈る。私はそれを第三者に贈る。その第三者は別のタオンガを私に返す。彼は私の贈り物のハウによってそうせざる得ないからである。そして、私もそれをあなたに贈らなければならない。というのも、あなたのタオンガのハウが実際に生み出したものを、あなたにお返しする必要があるからである。」

この文章は、都会人と農村部の人たちの関係(だけでなく、例えば、使用者と労働者の関係なども含めて、現代社会における様々な「関係」)を考える上で、非常に重要な問題を提起していると思われます。

つまり、この文章では、品物(タオンガ)に「霊(ハウ)」が宿っているとして、その品物を使って何かが生み出された場合、それは「霊」が生み出したものだと考えているわけです。

だから、「霊」と「霊が生み出したもの」の間には区別があり、霊が生み出したものを、元々の「品物」の所有者=「霊」の所有者にお返しする必要がある、

そうでないと「祟り」が起きる

そういう価値観と言うか、理屈がここに内在されているからです。

話がいきなり飛びますが、「アテネのタイモン」と言うシェークスピアの戯曲があります。

タイモンと言う人がお金を持っていた間は、みんなチヤホヤするのですが、お金がなくなると、手のひらを返すようになる、

そのタイモンが再びお金を得た時、こう言うのです。

「金貨か。黄金色にきらきら輝く貴重な金貨だな。

いや、神々を、私は真剣に祈っているのだ。

どうか草の根を。

だが、これだけの金があれば、

黒を白に、美を醜に、邪を正に、卑賤を高貴に、

老いを若きに、臆病を勇気に変える事もできよう」

タイモンが言っているのは、お金があれば、本当は汚い人でもキレイな人のようにみんながチヤホヤする、そのお金の「魔力」の事です。

「やい、罰当たりな土くれ。

人間を誘惑し、国家のあいだに無謀な紛争を起こさせるいかがわしい売女め。

いまにきさまの本領を存分に発揮させてやるぞ」

タイモンはこのように述べて、お金がなくなった途端、自分に冷たくなったアテネの人達への復讐のため、再び得る事が出来たお金を使おうと考えます。

このタイモンの例に、モノが霊を持っていると言う考え方を当てはめてみると、

元々のお金の所有者=タイモンはアテネの人達に良くしてあげた。

アテネの人達は、タイモンのお金(が生み出したもの)を受け取ったのだから、そのお金が持っていた「霊」も受け取った。

タイモンはアテネの人達のためにお金を使ったので、今はお金を持っていないのですが、元々の所有者であった以上、お金の「霊」はタイモンのものであり、その「霊」に報いないアテネの人達には、お金の霊が持っている「魔力」によって復讐が行われる・・・

そう言う事になります。



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