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「お返しがない」と怒る人がいると言う事

マルセル・モースの贈与論には、次のような記述が出てきます。

これらの交換はかなり頻繁に行われるが、地域の集団や家族は別の機会に道具などを自給しているために、贈り物は、発達した社会の取引や交換と同じ目的を果たすものではない。
その目的は何よりも精神的なものであり、交換した二人の間に親しみの情をもたらすことになる。贈り物が互いの親近感を引き起こさなければ、すべてがうまく運ばなくなる。

これは、農村部で地元の人と都会人がぶつかる現象をよく当てはまる理屈です。

あるところに耕作放棄地のようになっている場所がありました。荒れ果てているためか、物を捨てる人が多く、ゴミ捨て場のようになってしまいました。

見かねた周りの人達がそのゴミを撤去、ところが持ち主のAさんは撤去してくれた人達にお礼を言いませんでした。

ほとんどの人達は、単に感謝しないなら次からはやってあげるのを止めようと思っただけでした。しかし、ひとりBさんだけは、Aさんは挨拶に来なかった、とんでもない奴だと怒りを顕わにしました。

ある時、Bさんが持っている畑で使われていなかった場所を都会人のCさんが借りて半農生活を始めました。

Cさんは、Aさんの土地にゴミが捨てられているのを見て、友達やボランティアの人を集めて撤去してあげようかなと思い、Bさんにも話してみました。

Cさんの話を聞いたBさんは激怒、あんなヤツの為に余計な事をするなと感情をむき出しにしました。やがて、Bさんは、Cさんにも出ていってほしいと言い出し、Cさんはせっかくの半農生活の場所を失いました。

ところで、自分の土地が草ボウボウになっている上にゴミまで捨てられてしまっているAさんは、ヒョウヒョウとしているだけです。

みんながゴミを片付けてくれても、Bさんが激怒していても、気づいていないかのように振る舞っています。そして、遊休農地になっているのだったら貸してもらえませんか?と訪ねてくる人がいても、誰にも貸そうとしません。

AさんとBさん、そして、都会人であるCさんには、それぞれ「文化」の違いがあるのです。

「ゴミを片付けてあげる」と言うサービスを贈ったのだから、お礼=お返しがあるべきだと考えるBさん、そんな事は意に介さないCさん、お返しではなく、環境保全や社会奉仕と言う発想でゴミを片付けてあげようとするCさん。

以上、「贈り物が互いの親近感を引き起こさなかったためにすべてがうまく運ばなくなった」、現実に起きた物語です。

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