マルセル・モースの贈与論には、銅器が名前を持っていると言うお話が出てきます。

クランの首長の家族が所有する主要な銅器には名前があり、個性があり、固有の価値がある。
「富が富を惹きつけ、威厳が名誉をもたらし、精霊やよい縁組を誘うように、銅器は他の銅器を引き寄せる効力を持っている。」
銅器は生きており、自律的な運動をするし、他の銅器を引き寄せる。
銅器そのものが話し、不平を言い、与えられることを要求し、あるいは破壊されることを望む。分配すべき毛布で覆って首長を埋葬するように、銅器を暖かくしてやるために毛布で覆うのである。

名前を持っていて、お話をする銅器、それぞれ個性を持っていて、人が人を惹きつけることがあるように、他の銅器を惹きつけてしまう銅器、

まさに銅器そのものが生きていると言う状態です。

例えば、青銅器のようなものもそうだったとすると、

よく歴史の解説などに出てくる「銅鐸や銅矛・銅剣は祭祀に用いられた」と言うような言い方は、間違いではないにしろ、誤解を生みやすい表現かもしれません。

こうした説明は、銅矛や銅剣は、実際に戦闘に用いられたものではない、祭祀に使われたのだと言いたいだと思います。

しかし、過去においては、銅鐸も銅矛も銅剣も、「生きていて、名前を持ち、お話する存在」だったのです。

「祭祀に使われた」と言うのは、そうした「生きている」状態を適切に表現していないのではないでしょうか。

現代人は、モノには「使用目的」と言うか「機能」のようなものがあると考えています。

私たちは、これは調理に使うもの、あれは飾りに使えると、それぞれのモノを使用目的や機能で説明しようとします。

青銅器が、戦闘に使われたのでなく、祭祀に使われたと言う表現は、それ自体、こうした「機能主義」の現代人の発想によっています。

当時の人達は「銅剣は生きていると考えていた」でも、まだ十分ではないでしょう。

「当時は、銅剣は生きていた」のです。

だからこそ、日本書紀では、ヤマトタケルの腰から自然に草なぎの剣が抜け出て、草を薙ぎ払ったのです。

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