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人の価値観は他人には変えられない

人間というのは長く生きれば生きるほど価値観にがんじがらめになっていく気がする。

もうすぐ三十路になる私ですらそう思うのだから、きっとこれからどんどん偏屈で融通のきかない存在になってしまうのだろう。

そして同じように、いつしか他人を変えたい、分かり合いたいと思ってしてきた話し合いや喧嘩も少なくなっていくのだ。他人にも他人なりの価値観があり、それを変えることなど他人から見た”他人”である自分には変えることなど出来ないのだ。

そう、それは隣の騒音ニキにも当てはまる。

私の幼少時代の話になるが、親が俗に言う転勤族で、中学生になるまで様々な住まいで暮らしてきた。そのなかで、当然のように深夜は音を立てないのはもちろん、足音にも気をつけるし夜間でなくても話し声に気を使ったりという配慮を強いられてきた。そしてそれは他人も行なって然るべき配慮だと思って暮らしてきたのだ。

しかし、高校、大学、はたまた社会人になって実に様々な他人と関わり合うなかで、そんな環境で暮らす人はおそらく少数派であることに衝撃を受けた。友人は当たり前のように実家で大学まで通ってそのまま社会人に突入する。挙句入社した会社も実家から通えるなら実家から通え、という暗黙の了解があったのだ。そしてそれを誰も疑問に思わない。

きっと私は少数派なんだ。

このことに気づくまで実に20年以上かかったのだ。

話が大分ズレてしまったが、おそらく隣の騒音ニキは自分がどれだけの音を発しているのか気にしたこともないのだ。夜中に大声を出したら不快に思う人がいることを知らないだけなのだ。

多分騒音ニキも悪くないのだと思う。意図的に大きい声を出しているわけではないから。

どうしてだろう、なんかとても

人生損している気になるのは。

多分騒音ニキと私は喧嘩したところでお互い分かりあうことができないのだ。


そうして今日も私は不満を一方的に募らせて価値観を凝り固まらせていくのだろう。

最後に一言

爆音で流す曲が微妙に私の趣味を掠めるのをやめてくれ、ニキ。


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