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10話-うきたむ⇨おきたま⇨おいたま

みちのくのエスカルゴ号車旅

6日目 2022.04.13 その1

 紀行の中では昨日04/12日は米沢を出て、おいたま温泉で2時間半も過ごした。おいたまは「置賜」で山形県南部の地方名だ。「おきたま」と思っていたが地元では「おいたま」なんだ。調べると「おいたま」のほうが古いのだそうだ。


 埼玉(さきたま→さいたま)、大分(おおきた→おおいた)なども同様の例である。」としている。分を「きた」のからくりは「分」からないけれども。


 そのおいたま温泉を出たのは1945時。30分北上し道の駅「たかはた」で一夜を過ごす。国道268号の峠への出入り口だが夜の車の往来はほとんどない。そんなところでも道の駅は清潔に維持されている。翌朝つまり今日、目覚めると、いかにも走りこんでいると分かる体系の精悍な壮年の男性が、犬を散歩させながら施設の点検兼ねた様子でジョギングしていた。手には犬用ではないゴミ袋を持っており空き缶などが入っていた。そんな活動をしているのだろうことを示すロゴ入りの薄いパーカーを着て。ありがとう。

道の駅「たかはた」とエスカルゴ号の朝

うきたむ⇨おきたま⇨おいたま

 この道の駅のすぐ近くに「うきたむ風土記の丘考古資料館」があることを駅の掲示物で見たのだが、えっ、風土記、律令体制にここは服していたの?白河の関は会津より南だよと目まいがした。それに「うきたむ」はアイヌ語の響きがあるような気がする。

 「うきたむは日本書記に表れる置賜の古地名」との説明を見つけた。
 うきたむ⇨おきたま⇨おいたま、と云うことか。

 陸奥国の風土記はもちろん無い。無いと云うのは、出雲国のようにほぼ完本のものや、他の国のようになんとか欠損でも残されている、のではなく一切残されてないと云う意味だ。だからもともとはあって、でも失われたのか、それとも初めから存在しないのか不明と、そんな意味だ。

 青森市のサイトにこんなものがあった。これはワクワクする。
陸奥国(の風土記)は残されていない。ただし、不幸中の幸いと言うべきか、江戸時代に別の書物にその中の記事が部分的に引用されていたことが発見され、今に伝えられている。」⇦その内容は同サイトからどうぞ。

 この旅を計画しているときに読んだサイトだった。その時はなにも心にひっからずに素通りしてた。同じ文字列がリアリティをもって色彩を与える。

安久津八幡神社

うきたむ、おいたまの安久津八幡神社、竜が大空を駆け登ってる

 うきたむ考古資料館の東400m、おいたま道の駅の国道を挟んだ反対側に、安久津八幡神社がある。そこには歴史を見据えてきたかのような、端正な顔立ちの三重塔が佇んでいた。京の北山に分け入ったのかと思うほどだ。いにしえの美がここにある。それは祖先からの繋がりを変わらず守ってきたことを意味する。そんな当たり前のことを、感動をもって気づかせてくれる朝の風景だった。

 おいたま地方唯一の層塔建造物で、寛永2年(1625年)に建立と伝承され、現存の塔は寛政9年(1797年)に再建とのことである。

 この八幡社の御祭神は品陀和氣命(ほむだわけのみこと)だった。
 即ち神功皇后が三韓征伐を指揮していたときの、その皇后のお腹にいたミステリーの応神天皇だ。宇佐八幡だ。と思ったらやはり本社はそうだった。大和建国に関し、出雲神や八幡神のことに関心をもつ。だから一気に空想が広がるのだが、旅を進めなきゃ。

高度を上げて少し頭を北から左に向けると庄内平野の向こうに日本海

 これから山形へ北上しようとしている。奥州街道国道13号沿いに進むのがあたりまえなのだが、そうすれば南陽市を通ってしまう。きっとそうすればそこで1日を使うだろうか。もったいなくも国道113号を東へ、そしてすぐ県道の峠道に入り山形盆地南端部の上山市へむかう。

 最初の訪問地は上山城址だ。

山形盆地に入っての経路時歴。機首を右に振れば仙台平野の向こうに太平洋

上山城を翻弄した歴史の旋風

 ともかくも、上山は山形盆地から南へ続く南北に細長い平地部が尽きるところだ。山形を南から守るには大事な場所だが、その北側の山形が敵だと厳しい。そのとおりで城主も目まぐるしく変わっている。
 歴史の旋風はこの街道を往来し、この小国もまた硬軟交えた隣接国との対応(外交と戦争)は大変であり、そんな環境での経営(内政)もまた大変だったろう。

 歴史の旋風。それは大和が蝦夷(えみし)と呼んだその攻防期からあっただろうが、文献が残る時代で云うと、南北朝の対立が奥羽にも色濃く及んでおり、その煽りをうけ抗争勃発している。上山の国はその小ささ故、その南北を標榜する豪族たちの旋風に翻弄された。それ以降も時々に上山の征服者は変遷している。おらが国の城主様の環境ではなかったわけだ。この地政学的土地柄は同様の仕打ちをこの地に与え続けた。
 江戸期に入っても城主の交代は頻繁だったようで、元禄10年(1697)明石藩主の次男、松平信通(のぶみち)が藩主(3万石)となり、ようやく安定した。明石は私の生まれ故郷で、それだけで上山が近く感じはじめた。
 ここで云う安定は藩主家の交代が無くなった、の意味であり、財政は火の車で一揆も頻発するような状況だった。米沢へ移封国替となった上杉景勝が30万石だから、上山はその 1/10 である。歴史に翻弄されるわけであろう。

 1600年の北の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦で、上杉景勝の将直江兼続が米沢と庄内2方面から、最上・伊達連合軍(いがみあっている最上と伊達が協力して連合を組んだ。いつの時代も敵の敵は味方である)の山形へ侵攻した。その際上山城は北の長谷堂城とともに寡兵ながら攻勢をとり勝利している。本家の関ヶ原でも西方は敗れ兼続は米沢へ撤退する。
 これにより景勝は会津から米沢へ減封国替となった。そしてこれがなければ鷹山の物語もうまれなかった。歴史が自ら選択し歴史をうんでゆくがごとくだ。

+印は上山城、山形を南から守るには大事な場所だが、その北側が敵だと厳しい
上山周辺を大縮尺地勢図
ここで2万5千を擁する上杉景勝の直江兼続軍を凌いだ

 桜は美しかった。米沢城周辺よりここは標高で60mほど低い。気温の逓減率で計算すると、こちらの方が 0.4℃高くなる。たったそれだけの違いが開花時期にこれだけ影響するのだ。人もまたそうなのであろう。

上山城、満開の桜たち
花より団子を頂こう、奥は蔵王連峰

 斎藤茂吉に会いたくて上山城を1100出発。「その2」につづきます!

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