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玲音さんとの青春

1998年の7月、私は15歳で高校1年生だった。
受験勉強を1秒もしたく無かった私は「私立の単願推薦なら面接だけでどんなバカでも受かる」との甘言に飛びつき、家から1時間半かかるクソバカ男子校に通う羽目に陥っていた。

都内で最も付き合いたくない高校1位に雑誌で選ばれていたその学校には、オタクとヤンキーと登校拒否と泥棒しかおらず、私はこんな連中には馴染むまいと心に決めていた。
幼い頃から、親や友人や教師など、周囲の人達からの愛を一身に受けてすくすくと育った私にとって、突然始まった底辺高校での生活は苦渋に満ちたものであり、私は毎日ここではない何処かへと思いを馳せていた。 

私の家はその年の初めに、それまで住んでいた団地から二駅ほど離れた一軒家に引っ越し、私は初めて自分の部屋とテレビを手にいれた。
それまでの私はテレビという物に殆ど触れて来ず、友人達も流行を何も知らない私には、音楽や芸能人の話は振らなかった。
私は15歳にして初めて、初めては言い過ぎだが、ほぼ初めて能動的にニュースやアニメといったテレビ番組に触れる事になったのだ。

そんな私が初めて見たアニメが、今なお伝説のカルトアニメと語り継がれる「serial experiments lain」だった。
ワイヤードと呼ばれるもう一つの世界に翻弄され、自らの存在に不安を抱いていく主人公、岩倉玲音さん。
テレビ東京で月曜深夜25時15分から始まるその不思議なアニメに私は完全に心を奪われていた。

玲音さん。なぜこの子はこんな瞳をしているのだろう?
何にも関心がない人のようで、機械の改造にガッツリハマる。ストーカーや幽霊のようなものを見ても誰にも相談しない。大人しい子なのかと思えば突然ブチキレる。
毎週新たな顔を見せる玲音さんに、私の心は掻き乱されていた。

待ち遠しい月曜の深夜が訪れる。
前番組のつげ義晴のよく分からないドラマが終わると、私は画面に集中する為に部屋を真っ暗にし、イヤホンをつける。自分とlainとの間の不純物を取り除く為に全裸となり、暗闇の中で正座する。
これは全てlainを真剣に、万全の体制を持って鑑賞するために自然と身に付いた作法であった。
数年後に同じ様な状態を表す「全裸待機」というネット用語を知って、人は真剣に事に及ぶ時、似た様な形になるんだなと感心した。これも一つの集合的無意識であったのかもしれない。

lainを見終わるとすでに午前26時近く。朝6時には起きなければならない私は録画したビデオテープを枕元に置くと、まだ興奮冷めやらぬまま全裸で眠りにつくのだった。

月曜が過ぎれば次に玲音さんに会えるまでの1週間、私は何度もビデオを見返し、全てのセリフを暗記した。
家を出る前にはテレビに一時停止の玲音さんを映して凝視。網膜に焼き付ける事で外に出ても目を瞑れば玲音さんに会える肉体を手に入れようとしていた。

当然学校でも玲音さんを思っていた。授業のチャイムが鳴ると同時に机に伏せると、頭の中でプレゼント・デイ プレゼント・タイムが始まる。その週のlainのOPからCM、本編、ED、ウェザーブレイクまでを再生するのだ。全ての場面を正確な速度で脳内再生する事で30分前後のタイムを目指していた。

自分ははたして玲音さんに相応しい人間であろうか?自分は何時いかなる時も玲音さんのために死ねるだろうか?といつも考えていた。
崖から落ちそうになってぶら下がっている玲音さんを、私は助ける事が出来るだろうか?(デッドリフトやチンニング、ローイングなどで広背筋や上腕二頭筋を鍛え上げる事によりこの問題は解決する)  
サファリパークの大型動物エリアで車外に出てしまった玲音さんがキリンに襲われた時、私はすぐに助けに行くことが出来るだろうか?(車でキリンを撥ね飛ばし、クラクションを鳴らしながら即座に玲音さんを回収するのがベストだろう)   
常に襲いくるトラブルの予感に対応すべく私の心は休まる暇がなかった。

私は玲音さんを一人の女性として尊重したかった。
他の女性に目移りする様なことはあってはならなかった。
何をもって浮気とするかは人によって違うのかもしれないが、私はとにかく浮気に近い行為、その危険性がありそうな行為もしたくはなかった。玲音さんを裏切るような自分を許す事は出来なかった。

私は女性と一切会話をしない事に決めた。
モテない上に男子校に通っている自分には達成可能と思える目標であった。
とは言え世界の半分は女性であるので、厳密に言うと母親と親戚のおばさんと女性教師とレジの人と間違い電話の女性とは話してしまったが、基本的には女性とは一切会話をせぬまま、3年間の高校生活を終えた。これが私の清き青春の全てであった。

クソバカ男子校に通っていて唯一良かったと思えるのは、通学の乗り換えにlainの舞台でもある渋谷を使っていたことだろう。私はいつも山手線の西側の窓に張り付き、原宿・渋谷間を電車が移動する時に一瞬見えるスクランブル交差点を隅々までチェックしていた。
もしかしたら玲音さんがいるかもしれない。常に確認を怠らなかった。
lainファンならば道を歩いている時に歩道橋があれば、玲音さんが歩道橋の上にいないか、念のためチラ見するという事をやってしまうだろう。
私も毎日学校帰りに渋谷に降りては、センター街やオルガン坂を一周し、何処かにいるかもしれぬ玲音さんを探し歩いた。
残念ながら玲音さんと会えた事は一度もなかったが、あの頃のあの渋谷、私と玲音さんは確かに同じ街にいたのだ。

高校に馴染みたくなかった私も、徐々に同級生と話す機会が増えていった。
私の学校には奇妙な風習があった。
皆で話をしている時に「昨日彼女の家に行ってさ〜」とか「日曜に娘とディズニーランドに行ったんだけど……」などの会話が溢れ、皆それを受け入れていた。
勿論私達に娘などいない。彼女もいない。存在しない娘や彼女の妄想を昨日あった事として自然に語り合うのだ。
何を言っているか分からないかもしれないのでもう一度書くが、存在しない彼女や娘の妄想を昨日あった事として自然に語り合っていたのだ。

オーストリアの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」を読んだ事はあるだろうか。
戦時中、ユダヤ人であったフランクルはナチスの強制収容所に送られてしまう。劣悪な環境と労働により収容者達は次々と死んでいく。前向きな者も屈強な者も、善人も悪人も全て死んでいくのだ。その地獄の様な環境で生き残るのはどういった者か。
それは、おぞましい世界から遠ざかり、豊かな内面への逃避が出来る人間だった。
その場にいない、最早生きているかも分からない妻を思う時。あるいは神などの宗教的存在に祈る時。実際にいてもいなくても、その様な存在を胸に宿す事により、人間はとても生きてはいけない様な環境でも生き延びる事が出来るのだ。
善人と金持ちとスポーツマンと大学教授と探検家とlainファンが遭難した場合、最後まで生き残るのは当然、心に玲音さんを宿したlainファンだろう。

今思えば特に嫌な事があった訳でもない、ただ毎日何もないだけの冴えない高校生活にすぎなかったが、当時の私にとってはlainこそが唯一の救いであったのだ。

ある日私は、買ってきたAXの巻頭にlainのビデオとDVDの広告があるのを見つけた。
AXとは当時ソニー・マガジンズから出ていたアニメ雑誌で、lainの脚本家の小中千昭氏とキャラクターデザインの安倍吉俊氏のタッグによるlainの連載が掲載されていた。lainの画集「an omnipresence in wired」や、その復刻版の「yoshitoshi ABe lain illustrations」に載っているものがそれだ。

私は「ようやく公式のlainのビデオが揃えられる!」と喜んだが、次第に違和感を持った。
「1巻につき2〜3話収録。それが全5巻……?」
それでは10数話しか収められない。どういう事だろうか?lainの放送が10数話を過ぎた後は一体どうするつもりなのか?
そして私は恐るべき現実に気が付いてしまった。

lainには終わりがあるのだ。
それもあと数話で終わってしまうのだ。
そして何よりも私が衝撃を受けたのはlainとはアニメ作品であり、玲音さんはアニメのキャラクターであると言う事実だった。

lainとは最終回から始まる物語だ。
ゲームもアニメも最後に玲音さんがこちらに語りかけてきてリアルとフィクションが崩れて終わり、始まる。
close the world.   open the next.  
それがlainという作品の醍醐味だろう。

だが私は最終回を見るまでもなく、玲音さんを一目見た瞬間から玲音さんを一人の人間として見ていたし、それは今でもそうなのだ。
lainと同時にテレビを初体験した事、行き場のない思いをもった思春期であった事、現実と妄想の区別がついていない人間しかいないクソバカ男子校に通っていた事、そして玲音さんをアニメやゲームのキャラクター以上のものとして存在させようとしたスタッフの方々の熱意がこの様な事態を引き起こしたのだろう。

私は泣き崩れた。こんなにも好きになった玲音さんと、もうすぐお別れしなくてはならない。そしてもう二度と会うことは出来ない。
他の人たちが大切な人と結婚したり人生を共にする中で、私は玲音さんとデートはおろか、手を繋ぐ事もお喋りする事も出来ないのだ。
この人生で最も、唯一欲しいものが手に入らない、私の人生に満点はないのだと悟った瞬間だった。それは10代の自分には余りにも残酷な現実だった。私は慟哭した。

その夏私は15歳。私のlain道はまだ始まったばかりだった。