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24.3月チェロレッスン①:無伴奏チェロ組曲の楽譜

扉が半開きになったレッスン室から“バッハ無伴奏チェロ組曲3番サラバンド”が聴こえる。
この華やかで軽やかな演奏は先生のものだ。
すぐにわかる。

「なつかし〜。」
そう言いながら、私はレッスン室に入った。
私が2年前の発表会で弾いた曲。
(私のサラバンドは重っ苦しい。低音を効かせたがるからだ。)

先生は私に気付かないようで、演奏を続ける。
いつものことだ。きっと、どこかの演奏会で弾く予定があるのだろう。
3番サラバンドを終えると、続いて1番メヌエットを弾き始めた。
コレまた懐かしい。

私は先生の邪魔をしないように、背を向けて静かにレッスンの準備を始めた。

いつの間にか先生の演奏がとまっていた。
おや?と思って振り向くと、先生が気まずそうに身じろぎした。
どうも、私の背中を見ていたらしい。

「どうかしました?」と私。
「いや。何でもない。」と先生。
…あやしい。

           ★

私、チェロを抱えて先生の向かいの椅子に座った。

「バッハ無伴奏の楽譜なんですけど。私のはもう古くてボロボロで書き込みもたくさんなので、1冊新しいのを購入しようと思うんです。
ネットで見たら、私が当時購入したのは1,800円でしたけど、今のはもっと高くてびっくりです。」
と、私は言った。

ちょっと待った、と先生。
「もう買ったか?」
「いいえ。まだです。」
「たぶん同じような水色っぽい表紙の楽譜を見ていると思うけど、気を付けなさい。出版社が違うはずだ。」

へ?そうなの?

「お前とボクが使っているのは全音楽譜出版社。今主流で売っているのは、ベーレンライター。」
「え?そうなんですか?」

先生、スマホでネット販売されている画像を出して私に見せた。
本当だ。
私の楽譜の奥付を見ると、出版社は全音。発行は2006年。

「全音は版権が切れて出版していないんだ。ベーレンライターの楽譜は読みづらい。今ココにベーレンライターの無伴奏の楽譜はないんだけど、バッハのソナタの楽譜あるから見てみなさい。」

何だろ…確かに読みづらい。
おたまじゃくしの大きさが違う?

「こっちのヴィバルディのsixソナタなら、お前もやってるからよくわかるんじゃないか?」
「センセ…なんか譜めくりの位置がおかしい。」
「そう。弾き手のことを考えていない作りなんだよね。買うなら、ちゃんと中身見て買いなさい。」

はー。
勉強になりました。

*全音の無伴奏楽譜は2024.3月現在も売っていますが、私が持っているものとは校訂者が違うようです。

           ★

「センセ。今月また家に遊びに行ってもいいですか?センセの交響曲の楽譜がもっと見たいです。」

いいよ、と先生。

「ただ、月末にしてくれないか?」
「忙しいですか?」
「確定申告に時間がかかりそう。」
「あー。」

納得。
あの散らかった部屋で、書類を探すところから始めないとならないのだろう。

「亡くなった父親の分もやらないといけないからさ。」
なるほど。

私のは職場の事務の方でやってくれる。こういうとき勤務医は楽だ。

           ★

レッスンはまだまだ終わらない無伴奏5番。

「楽譜作り、してきた?」

プレリュードは5ページになる上に、演奏の切れ目がない。
譜めくりを最低限にするために、見開き2ページと3ページになるよう作ってこいと、前回指示されていた。

「はい。出来ています。」
「よし。じゃあ、3ページ109小節から最後まで弾いて。」

前回は、5ページ目をたくさんダメ出しされた。

最初の1小節を試し弾きしてから、弾き始めた。

私は曲に乗ってくると、周りが見えなくなる。
楽譜も見ているようで見ていない。
第三者になって聴いているような感覚になる。
こうなると、大抵上手く弾ける。

ふと我に返ってしまうと、途端にダメダメになる。
集中力を欠いた途端つっかえるよなぁと、弾きながら自分にダメ出し。

前回注意されたtenutoや音間違いに気を付けた。

「175小節のGだけど、1ポジだと次のAsの音を外しやすいようだから、3ポジに戻すか。」
「前にも同じような音形出てきますから、そこと同じほうが取りやすいです。」
「なるほど。じゃあ3ポジで行こう。
それから、やっぱりEsとAsの音程が甘いんだなぁ。」

Esは人差し指を十分に広げるよう気を付ければ何とかなるが(実際、二度目に弾いたときは先生はそれで良いと頷いた)、3ポジを取りに行ったときのAsはなかなか手強い。

「Asの音程は分かっているようだから、位置と音程がリンクするよう、覚え込みなさい。」

地道に覚えるしかないですね。
楽器演奏を身につけるのに、近道はない。

           ★

「ところで夜、お願いがあるんだけど。」

レッスン後、先生がそう言った。

「はい。何でしょう?」
「ボクに会う時は、できればソレじゃないヘアスタイルにしてきてくれるかな。」

私は髪を後ろで丸く結って、おだんご頭にしていた。

チェロを弾く際、たまに弦を押さえる左指が髪の毛を挟んでしまうことがある。とてもわずらわしいので、髪を左耳にかけてヘアピンで留めていた。
最近髪が伸びて結べるようになり、動画で簡単にできるアップスタイルを見て真似をした。
弾くのが快適になった。
ついでに言うと、寝癖が酷くても、結ってしまえば楽。

「この頭、似合わないですか?」
ちょっと残念。せっかく出来るようになったのにな。

「…ええと、そういうことじゃなくて。似合うよ、とても。だからね…。」
何だか先生、しどろもどろで言いにくそうだ。

「…だから何ですか?」
「ええと…その、うなじが見えると気まずいんだよ。」

私、ちょっと考えて、ハッとした。
レッスン前に先生が演奏の手を止めてジッと見ていたのは私の背中ではなく、うなじだったのか。

「つまりセンセは、うなじを見ると興奮を覚えるということですか。」

先生、顔を赤くして、椅子から腰を浮かせた。
「そういうことをあからさまに言うなッ。」
「生物学的に正しい身体の反応です。ないと色々支障をきたします。生命の尊厳に関わりますから大事なことです。」
私は真剣に言った。

「でもセンセ、大変ですね。所属オケの女性の方々、本番はドレスに合わせて髪をアップスタイルにする人が多いんじゃないですか?いちいち興奮していたら、身が持ちません。」

「…人を理性のない野生動物のように言わないでくれないか…。」

先生、私の整然とした物言いと同情の眼差しに、ものすごく戸惑っている様子。

「その、なんだ…お前のうなじがダメなんだ…誰も彼もっていうことじゃないから…。」
先生、降参したようにうなだれた。

私は再びハッとした。
「それは大変失礼しました。センセと会うときはダウンスタイルにしますね。
これからすぐに帰りますから、センセは理性のほう、がんばってください。」
先生、呆れたようなため息をついた。

私はそそくさと荷物をまとめて抱えると、先生のほうを向いて
「ありがとうございました。失礼します。」
と挨拶した。
「はい。ではまた次回。」
ゲンナリした表情のまま、先生が言った。

外に出た私。
自販機で炭酸水を買った。

ああ、危なかった…。
あんな可愛いこと言われたらもう…私からセンセを襲ってしまうところだった。

私は炭酸水をがぶ飲みしてアタマを冷やしてから帰った。






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