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ヨーロッパ史に残る特異な出来事~ミュンスター再洗礼派事件

はじめまして。はじめて note に投稿する永本哲也と申します。私は近世ドイツの歴史を専門とする歴史学の研究者です。共編著『旅する教会 再洗礼派と宗教改革』や『ミュンスター宗教改革』という本を出しています。詳しくは、researchmap のプロフィールをご覧下さい。
https://researchmap.jp/saisenreiha/

目次
1 宗教改革から生まれたマイノリティ「再洗礼派」
2 ミュンスターを「異端・反乱者」の再洗礼派が支配する
3 地上に降りた新しいエルサレムでの黙示録的戦い
4 再洗礼派の敗北
5 参考文献

今回ご紹介するのは、私が主に研究しているミュンスター再洗礼派についてです。彼らが1534から35年にかけて引きおこした事件は、ヨーロッパ史上でも屈指の特異な出来事でした。では、彼らが起こした事件は、どのように特異だったのでしょうか?

1 宗教改革から生まれたマイノリティ「再洗礼派」

それを説明する前に、先ず「再洗礼派」という人々についてご説明しなければなりません。

「再洗礼派」は、はルターたちが宗教改革を行っていた16世紀前半に出てきた宗教的マイノリティです。

宗教改革は、ルターやカルヴァンのような著名な神学者やその支持者だけが行っていたわけではありませんでした。非常に多種多様な考えを持つ人たちが入り交じって進んでいたのが、宗教改革でした。再洗礼派は、その中の一派です。

再洗礼派は、洗礼に関してルターたちとは違う考えを持っていた人々を言います。洗礼とは、キリスト教徒になるための入信儀式のことです。宗教改革の時代にはキリスト教の教会がどんどん分裂していきましたが、カトリック、ルター派、改革派という主要な教会は全て、生まれたばかりの赤ん坊に洗礼を行っていました。これは、中世以来の伝統を引き継いだものです。

しかし、再洗礼派は、この伝統的な洗礼のやり方を批判しました。彼らは、物心ついて分別がついた者が信仰を持った後、自由意志に基づいて受けることによって、はじめて洗礼は効果を持つと主張しました。そのため、再洗礼派は、まだキリスト教の教えも分からないし、キリスト教徒としての自覚も持てない幼児に対する洗礼は無効だと考えました。

最初の信仰洗礼は1525年にスイスのチューリヒで行われ、その後再洗礼派は、スイス、ドイツ、オーストリア、モラヴィア、低地地方などヨーロッパ中に広がりました。ただし、再洗礼派の起源は一つではないし、彼らは一枚岩の集団でもありませんでした。

再洗礼派は、カトリックやプロテスタント主流派とは考え方が違ったので、異端、さらには反乱者として取り締まりの対象となりました。ヨーロッパ各地の当局によって逮捕されたり、追放されたり、場合によっては処刑されました。彼らは人数も少なかったのですが、圧倒的に信徒数が多い他の宗派よりも遙かに多くの処刑者を出しました。このことは、いかに再洗礼派が厳しく迫害されたかを示しています。

2 ミュンスターを「異端・反乱者」の再洗礼派が支配する

このように再洗礼派は、世俗権力と結びつき体制派の教会を作らなかったマイノリティでした。しかし、その中で例外的に統治権力を握った再洗礼派集団が現れました。それが、ミュンスター再洗礼派です。

その舞台となったミュンスターは、ドイツ北西部ヴェストファーレン地方の中心都市の一つです。1648年に三十年戦争を終結させたウェストファリア条約が締結された街でもあります。

16世紀に宗教改革がヨーロッパ各地の都市に広がっていく中、ミュンスターでも1530年代に入り宗教改革運動が始まりました。多くの人々の支持を受け、ミュンスターでも宗教改革が公認されることとなりました。

こうして最初は他の都市と同じような社会運動として始まったミュンスターの宗教改革ですが、指導的説教師ベルンハルト・ロートマンが、幼児洗礼を批判し、信仰洗礼を主張し始めたことを契機に、次第に急進化していきました。そして、市内で激烈な宗派間の争いが行われた結果、1534年2月にロートマンを支持する再洗礼派が統治権を得ることになりました。

しかし、再洗礼派は、神聖ローマ帝国で異端・反乱者として死をもって禁じられていたため、ミュンスターは、帝国諸侯の軍隊に包囲されることになりました。こうして、再洗礼派たちは、帝国を相手に戦争を繰り広げることになりました。

3 地上に降りた新しいエルサレムでの黙示録的戦い

ミュンスター再洗礼派は、終末が間近に迫っており、新しいエルサレムたるミュンスターでのみ、神による罰を免れえると信じていました。そのため、彼らはミュンスターで神の意志を実現しようと、既存の都市制度を廃絶し、キリスト教的制度に入れ替えました。

都市の中では私有財産が廃止され、財産が共有されるなど、経済制度も劇的に変化しました。そして、それまでの婚姻関係が解体され、一夫多妻制が導入されて、全ての女性は結婚を強いられることとなりました。

再洗礼派統治が始まった当初は形式的には既存の統治制度が保たれていましたが、次第にオランダから来たヤン・マティスとヤン・ファン・ライデンという二人の預言者が指導する神権政へと変わっていきました。そして、ヤン・マティスが、わずかな手勢と共に包囲軍に攻撃を仕掛け惨殺された後は、もう一人の預言者ヤン・ファン・ライデンが指導者となりました。

彼はダビデ王として、もうすぐ再臨するソロモンたるキリストのために王国を準備しようとしていました。そのために彼は、背神の徒を軍事的に打ち倒すために、市内で軍事訓練を受けながら、低地地方から再洗礼派の援軍が来るのを待っていました。

4 再洗礼派の敗北

再洗礼派は、神の奇跡的な力によって、あるいは包囲軍に勝利することによってミュンスターが解放されるという予言を信じて厳しい包囲戦を行っていました。しかし予言は、繰り返し現実に裏切られ、救いは訪れませんでした。

包囲軍によって外部からの食糧供給が絶たれた市内では飢えが広がり、人々は次々に餓死していきました。飢えに耐えられない者が市外に逃亡する中、包囲軍が市内に雪崩れ込み、1535年6月25日にミュンスターは占領されました。こうして、世界の終わりもキリストの再臨も見ることなく、ミュンスター再洗礼派統治は終焉を迎えました。

ヤン・ファン・ライデンたち3人の指導者は包囲軍によって逮捕され、拷問を伴う尋問を受けた後、公開処刑されました。彼らの亡骸は、鉄の檻に入れられ、見せしめのために聖ランベルティ教会の塔に吊されました。この三つの檻は現在も当時と同じように尖塔の上に吊されています。

では、何故ありふれた宗教改革としてはじまったミュンスターの宗教改革は、最終的にこれほど特異な事件へと変貌してしまったのでしょうか?この過程を分析したのが、私が今年出した『ミュンスター宗教改革 1525-34年反教権主義的騒擾、宗教改革・再洗礼派運動の全体像』という本です。
次回は、ミュンスター宗教改革が次第に急進化していき、再洗礼派支配が実現するまでの過程をもう少し詳しくご紹介します。

5 参考文献

再洗礼派について詳しく知りたい方は、以下の本を読んでみてください。全世界、全時代の再洗礼の歴史が、概観できるようになっています。
永本哲也、猪刈由紀、早川朝子、山本大丙編『旅する教会 再洗礼派と宗教改革』新教出版社、2017年。

日本語の再洗礼派に関する文献の一部は、私のブログで紹介してあります。
http://d.hatena.ne.jp/saisenreiha/20170426/1493208538

ミュンスター再洗礼派については、私と倉塚平の研究を読んで下さい。
永本哲也『ミュンスター宗教改革 1525-34年反教権主義的騒擾、宗教改革・再洗礼派運動の全体像』東北大学出版会、2018年
倉塚平「ミュンスター千年王国前史」『政経論叢』
・倉塚平「ミュンスターの宗教改革 ―再洗礼派千年王国への道―」中村賢二郎、倉塚平編『宗教改革と都市』刀水書房、1983年、260-316 頁

ミュンスター再洗礼派と諸侯の戦いは、以下の論文を参照して下さい。
・永本哲也「帝国諸侯による「不在」の強制と再洗礼派による抵抗-1534-35年ミュンスター包囲戦における言論闘争と支援のネットワーク形成」『歴史学研究』947、2016年8月号、36-47頁。

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