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[余白計画] ライ麦畑を聞いてきた


先日、「文芸漫談・ライ麦畑でつかまえて」を観にいってきました。

文芸漫談というのは、奥泉光さんといとうせいこうさんが、さまざまな課題図書について、おもしろおかしく語る、講義のようなフリートークのようなステージです。初めて観たんですが、もうシーズン4だそうです。会場は、新宿文化センター。

ぼくは、十代のときに野崎孝さんの訳で読んで、それきり何十年も読み返していません。ですがその本はもう手もとになく、もってたのは村上春樹さん訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。しかもそっちはぜんぜん読んでないという、ぐだぐだな状態で観覧しました。

おふたりが登壇して、雑談から入ります。いわば、まくら。
「灼けてますね!」と、いとうさん。奥泉さん、実はフランスでテニスを観戦してきた。会場を先に予約するので、どの対戦が行われるのかわからない。奥泉さんご夫婦は、フェデラーが好き。二つのマッチを予約して、最初のはナダル。フェデラー見たかったねと、ややがっかりしながら、二戦目に期待したら、またもナダル!

「もうナダルだ、と」
奥泉さんは、いきなり、いいきります。「国には国花や、国鳥がある。奥泉家にも、家の花があるんです、むくげ」
なんの話だ?と会場は、みょうな笑い。いとうさんは、混乱しながらも、いいます。「うちは、しゃくやく」
「奥泉家の、家のさかなは、かさご。決まってるんです。だから、もうそれでいいと。奥泉家のテニスプレーヤーは、ナダル」

そんな、なんでもない話から、ゆるゆると『ライ麦』に入ります。底本は野崎訳で、ちょっと古くなった訳をいじったりしながら、すすみます。

聞いていて、ぼくがこころに残ったことは、二点ありました。


まずは、時代性のこと。1951年の本であること。日本はサンフランシスコ平和条約。まだまだ貧しい戦後です。戦勝国のアメリカは、国土も社会も日本のようには破壊されていない。
エスタブリッシュが階級として活きていて、主人公ホールデンは、家庭環境としては裕福なので、子どもからおとなになることで、じぶんをそこに位置づけなくてはならない。おそらく鼻持ちならないと感じているおとなたちにならなくてはいけない。そのはざまで、悩み、もがいているということなのでしょう。


もうひとつは、ホールデン自身のこと。この物語は、じぶんが「療養」しているという告白からはじまります。おそらくは精神的な病い。

いわば、社会に適応できないひと。反抗するひと。おとなになりきれないひと。そんなホールデンが、そこまで追いこまれたのはなぜか。
というふうに、この物語を読むこともできるとぼくはおもいました。

奥泉さんは、以前の回であつかった作品を、挙げます。『坊ちゃん』と『地下室の手記』です。ライ麦は『坊ちゃん』に、よく似ていると。ホールデンの理解者である、善良な妹のフィービーが、坊ちゃんの清にあたる。そんなことを指摘します。
だけど、ホールデンはちょっとちがう。と奥泉さんはいいます。じぶんを落第させた先生に、いやあ先生の立場もよくわかりますよ、なんていったり、バーで女子グループをナンパしてみせたり、社会適応者の(リア充的?)ふるまいをすることができるのです。

ここから、いとうさんが、導いたのは「信頼できない語り手」。文学の用語ですが、一人称で語られる場合、客観的なはずの地の文が、かなりの主観が侵入する。それでも読むひとは、そこにうそがないと考えないと読み進むことがむずかしい。「信頼できない語り手」というのは、そこに、あきらかなうそや錯誤がある場合です。

ようは、ホールデンは、先生に社交辞令もいってないし、女の子たちに声をかける勇気もなかったんじゃないか。話を盛ってる、イキってるだけの可能性もあるんじゃないか。

もうひとつ、いとうさんの面白かった指摘は、ホールデンのあっちこっち話が飛び、よく読むとつながってない語りは、いまでいう「多動」なんじゃないかということ。

いずれにせよ、いまなら入院するほどの精神的病いとは見なされないんじゃないかという指摘もありました。


だとしたら、どうして…?

ここからぼくの詩人的な妄想なんですが、ホールデン=アメリカ、と感じました。比喩といういみではなく、時代性や社会性が、個人の病いにダイレクトに影響している。感受性の高いひとりの少年に、政治性が凝縮されていると読むべきではないかと。

ヨーロッパに反抗していればよかった、アメリカという新興のやんちゃ坊主が、二度の大戦をへて、いっきに世界の盟主にならなければいけない。世界の家長、おとなにならなければいけない。
そのきしみのようなものが、ひとりの感じやすい少年をひきさいていくプロセスを読みとるべきではないのかなと。

だからこそ、同時代の若者にあれほどのインパクトと共感をひきおこしたのだろうとおもいました。

「炭鉱のカナリア」のようなものとして。

そして、そうおもうと、冒頭のまくらがちがう響きかたをしてきます。
国花や国鳥から、家の花やさかなに、地すべりしていくギャグが、国家的な共同幻想が、家族や個人の私的なイメージを、じかに変容させてしまうことの、ひとつの寓喩におもえてきます。そんなことを帰りの副都心線のなかで考えました。
かなりアドリブ的で、そこまで計算して話したはずはないだけに、ふたりの達人に畏敬のおもいをいだいた夜でした。


※ぼくの記憶と解釈がかなり入っているため、おふたりの実際話されたことや意図とちがっていることも多いとおもいます。悪しからず、ご了承ください。

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