手話能を観て、ぼくはちくわになった。

 能楽師の安田登さんにご招待いただいて、2018年10月20日、喜多能楽堂で行われた「第3回 『手話』で楽しむ能狂言鑑賞会」を観た。
 去年の2017年にも鑑賞したのだけれど、そのときは初めての「能」の世界を味わうことにいっぱいいっぱいで、パンフレットに書かれたあらすじをあらかじめ読んでから手話や動きを確認するという、ちょっと作業的な感じがあった。そのため、めっちゃくちゃに新鮮ではあったけれど、楽しい!とまではならなかった。
 そんな去年と比べると、二回目になる今年の手話能は、能楽堂の空間への余裕もあったり、パイオニアの体感音響システム(ボディソニックとも言うみたい。こっちのほうがかっこいいな。ボディ・ソニック!)を使ったということもあり、いろんな情報をもったうえで観ることができたことで、最高に楽しかった。

 楽しい、とだけ書くと、なんか、物語のある映画をただ観るだけの消費的な感じがあるな。そうではないんです。空想して、妄想して、じぶんの心とからだからたちのぼる、空想と妄想にひたりながら、目の前の光景を能動的に創り変えながら観ていた。これはもはや創造だった。
 公園の砂場で遊ぶこどもは、「遊んで」はいない。砂場であらゆるものを作り出す幼きその人は、そこに世界を望んで、世界を見出して、世界を創造して破壊して、世界を支配している。世界を想いのままにあやつることのできる神様のごとき創造主としての鑑賞をすることができた。

◎ ● ◎ ●

 手話狂言は、日本ろう者劇団の人たちによる「六地蔵」。
 これがとてもおもしろかった。手話なんだけれど、たとえば手話ニュースのような、がっつり言語としての日本手話というのでもなく、もっとやわらかくてなつかしい身体的な言語に寄っている手話という感じかなあ。

 日常会話としての手話と比べると手話狂言の語りのリズムはとてものんびりしている。なので観始めのころは、ぼおっとしてしまった。けれど、次第にゆっくりとしたリズムが馴染んでくるにつれて、ゆっくりなはずの表情や手話がだんだんものすごい密度をともなって、見えて、聴こえてくる。
 しまいには、すっごい情報量を整理するのに頭が追いつかなくなってきて、内容やセリフを理解するよりも、ただただ今そこで謳われている表情や仕草を観ることに集中することになって、それがまたとても良かった。日常会話の日本手話では感じることのできない、独特な語りの時間。

 とにかく表情が豊かで豊かで…。日本手話でつむがれる表情表現には、ほとほと「豊か」としか言い表せないものがあるのだけれど、ただでさえ豊穣なそれが、たっぷりとした間とともにとろとろとろと謳われるのって、たまんなかった、ほんと、たまんないなあ、という感嘆と、くっくっくっというこらえきれずこぼれる笑いが、交互に、押し寄せて、きて、へらへら、ほらほら、ぶるるるっ、しながら観ていた。

 後半で、そんな手話にとって欠かすことのできない表情が能面によって隠される場面になる。表情は見えてないし、能面は動くわけもない。
 けれど、それまでの濃密な表情表現の名残をもってそのふるまいを観る時、動かないはずの能面の表情がくにゃくにゃと動いて見えた。三人の役者(っていうのかな)それぞれの表情の違いを捉えたうえで、ぼくの妄想?空想?想像?が加わりながら、さらに有機的な創造物として能面の表情が、くねっくねっ、生きて動いていた。

 最初から「能面」として決めてかかって観てしまうと、能面の表情は消え失せてしまう。これは去年に観ていたときの思いだった。今年は違った。ずっと能面というのでもなく、生身の表情からの能面装着という経緯があったからか、手話表現の濃密な表情を残しながら「その人」として観ていくことができた。そうして、能面の表情が動いた。能面が生きた。 

 新しい世界を知った。
 やばいやばい、これはやばいぞ、と興奮した。

(上記は「MY NAME IS MINE」というぼくの作品です。1秒間のあいだに自分の名前を語っている瞬間。このシリーズ再起動したいな、しなきゃな。)

 
後日、まんが「鬼滅の刃」を読んでいるとき、上記のきもちが蘇った。
 ちなみに「鬼滅の刃」は現在ジャンプで連載している、最高にあっつい少年漫画です。猛プッシュです。みんな買ってください。応援してください。ずっと読み続けたいので…!

 このまんがの世界設定を、ほんとうにざっくり説明すると、人食い鬼を狩る鬼殺隊という組織がありまして、そこに属するメンバーたちの刀をつくる刀鍛冶たちはみんなひょっとこのお面をつけているんですね。
 「鬼滅の刃」が素敵にすばらしいなあと思うのは、そのひょっとこの面を変にデフォルメすることもせず、全部同じ仮面として描いている、つまり、表情はない。仮面の下にある表情を想う手がかりは漫符のみ。それなのにちゃんとそれぞれの人物の違いが伝わってくるし、むしろより表情豊かなものとして自然に読めてしまっている。
 この感覚が、手話狂言で感じた、能面に表情を見出したときの思いに近いと思った。いや、そのものかもしれない。

 まだ2回しか観ていないので、あまり強く言ってはいけないと思いつつ、手話表現独特の身振りや動き方、眼の配り方などが、漫符そのものとして読み取れる気がする。ゆったりとした動きだから、まんがを描くように、コマ割りしながら鑑賞することもできる。(ほんとだよ)
 手話狂言はまんがそのものだったし、まんがの原型が、手話狂言にあるんじゃないかとまで思った。いや、手話狂言自体は新しいものなんだけど…。あー、いや、「手話」とつけるからややこしくなるのか。「言葉がみんなに通じるわけではないことを理解している人たちによる身体言語を駆使して謳われた狂言」というべきか。そういう表現のところに、まんがの原型がある気がした。

 それにしても、存在する生命が放つ表現を読み取るところは、片言の言葉でもないし、パーツでもないんだなあ。ふるまいや、動き方、癖、しゃべりかた、体躯といった、その人すべてを含んだ全体的なところなんだなあ。

◎ ● ◎ ● 

 そして、能は「船弁慶」。

 以下に、ぼく自身のメモとしてあらすじを引用します。

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平家追討に功績をあげた源義経でしたが、頼朝に疑惑を持たれ、鎌倉方から追われる身となります。義経は、弁慶や忠実な従者とともに西国へ逃れようと、摂津の国大物の浦へ到着します。義経の愛妾、静(しずか)も一行に伴って同道していましたが、女の身で困難な道のりをこれ以上進むことは難しく、弁慶の進言もあって、都に戻ることになりました。別れの宴の席で、静は舞を舞い、義経の未来を祈り、再会を願いながら、涙にくれて義経を見送ります。
静との別れを惜しみ、出発をためらう義経に、弁慶は強引に船出を命じます。すると、船が海上に出るや否や、突然暴風に見舞われ、波の上に、壇ノ浦で滅亡した平家一門の亡霊が姿を現しました。なかでも総大将であった平知盛(とももり)の怨霊は、是が非でも義経を海底に沈めようと、薙刀を振りかざして襲いかかります。弁慶は、数珠をもみ、必死に五大尊明王に祈祷します。その祈りの力によって、明け方に怨霊は調伏されて彼方の沖に消え、白波ばかりが残りました。

the能ドットコム」引用

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 あらためて手話能を見ているときの感じを思いだしてみると「からっぽ」な感じが、うれしく、立ちのぼる。
 このからっぽな感じ。説明がむつかしいのだけれど、水が抜けていくホース、子供の遊び場になっている土管、きゅうりやチーズが入りこみたくなっちゃうようなちくわ、そんな中心のない円筒というからっぽさ。

 空白をリズムが響き抜けていく。ただただ万物が通過していくだけの、からっぽなからだひとつのわたし。

 1回めに鑑賞したときは、このからっぽな感覚を感じることはなかった。パイオニアのボディソニックで、音に合わせてぶるぶると振動するシートとポーチがあったからだなと思う。(難聴や中途失聴の人は、ヘッドホンでも感じることができるようです。ぼくもやってみたけれど、全然聞こえなかった)

 視覚以外の情報をもってなにかを鑑賞する経験はこれまでなかったので、どういうものだろうと思っていたけれど、想像以上に、音や声を出しているその人のからだに触れているかのような触覚の感覚がめざまされて、ちょっと遠いなと思っていた眼の前の光景を自分のからだにより引き寄せて観ることができた。

 ときどき、だれもなにもしていないはずなのに、ぶるぶるぶるぶる……とボディソニックが振動することがあった。舞台を観ても、目で見る限りはだれも何もしてない。音源がどこなのかわからない。正体不明の振動がなんだか気持ち悪くて振動を消してみたりしていたけれど、結局、元通りにした。
 そもそも音は、ぼくには関わりないものなので、そもそものそもそも、音がどこからでているのか、だれの声なのかと答え合わせをする必要はないのだった。ううん、音声の世界の呪縛にまだまだとらわれているな。

 聾するぼくのからだの、ぼくの空想の、ぼくの感覚のままに観ていいのだった。

 事前に読み込んだ安田登さんの「あわいのちから」(ミシマ社)、「能 650年続いた仕掛けとは」(新潮文庫)で、見えないものを見るあわいの力や、ARのような現実が拡張されていく妄想力、言葉を伴わず一瞬にして相手に伝わる「心(しん)」の境地があることや、すべてが有機的なつながりをもって互いが互いを含みあうものがあることを知ったうえでこそ、「能」を体感できるという教えをぼくなりに学んでいたので、正体不明のぶるぶるは、そんな妄想をよりたくましく刺激するエナジードリンクになった。

 本当はそんな道具に頼らずとも、知恵や知識、経験を重ねることで、自分のからだひとつで妄想を自由自在に生起させることもできるはずだから、そういう意味でのエナジードリンクです。


 そんなわけで正体不明のぶるぶるを、亡霊の声、言葉にならない嘆き、心情的な揺れ動き、として捉え直してみれば、ああ、楽しい。超楽しい。
 序破急のリズムが、ぼくの妄想を呼び寄せる時間を与えてもくれていて、なお、楽しやの楽しや。

 安田登さんも手話で表現されていた。
 古語である能の詞章を発しながら、現代語である手話で表現しているという。古語がどういうものかはわからないし、次元はまるで違うのだけれど、ぼくも頭の中で日本語と日本手話のスイッチの切り替えに苦労しているので、違う言葉を同時に放つ大変さを知っているので、ほとほとすごいなと思う。

 感情とか思いや言葉をうまく捨てられず、目いっぱいに詰まっていて、風が抜けていかないぎっしりなからだだから、さみしくなったり、悲しくなったりするんだなと思った。こころはどこにもなかった。

 手話能を観ながら、妄想空想幻想がすうすうと吹き抜けていく、ちくわな己のからだをひしひしと感じつつ、ぼくは満ちていた。


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手話能を観て、ぼくはちくわになった。

齋藤陽道

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