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蝮(斎藤道三)の娘 濃姫

 中途半端な歴女の斎藤緋七です。

 今回は日本史の大スター織田信長とその正妻の濃姫、信長の妹(娘説有)のお市の方について書きたいと思います。

 信長の正妻の濃姫の父、斎藤道三は、蝮の道三(まむしのどうざん)と呼ばれていました。
 父親の道三が蝮なら娘の濃姫は蝮の娘です。
 濃姫の名は実は不明で「美濃からやって来た姫」から濃姫と呼ばれていたようです。
 飛鳥時代から「生まれた場所が(現在の滋賀県)大津だったから大津皇子(天武天皇の第三皇子)と名を付けよう」のように生誕地から名前を付けることは珍しくありませんでした。
 
 婚礼をあげたとき、信長は16歳、濃姫は15歳でした。花嫁の濃姫は15歳にして既にバツ2で信長との婚姻は3回目でした。
 僅か15歳で三回も政略結婚をさせられた我が身を濃姫はどう受け止めていたのでしょうか。このことから当時の女性が父親や兄弟や夫の政治的な道具だったことが分かります。

 嫁いでから子に恵まれて夫婦円満でも、夫が若くして戦で命を落としたり、突然、夫が実家の父親の政敵になり「敵の娘」と冷遇をうけたり、夫の都合で離縁され、新しい夫に嫁ぐことも珍しくない時代でした。

 仮に娘が沢山居ても、おっとりした性質の娘は有能な家臣等に嫁がせていたようです。
 政略結婚をさせて、正妻や側室として敵地に送り込む娘は誰でも良い訳ではありませんでした。
「勘が鋭く」
「いざと言うときに機転の利く」
「切れ者の娘」が選ばれました。
 戦になれば「婚家よりも実家の為に働く」
 これが当たり前に行われた時代でした。
 書いているだけで、気力を奪われるくらいに大変な時代ですね。

 有名な話ですが、織田信長の妹のお市の方は、戦の最中に(お市の方は信長の敵に嫁いでいた)ある情報を得て勘が働き、兄の信長が左右から敵に挟み撃ちされることを知りました。
 そのことをお市の方は信長に一文字も使わないで伝えました。
 自ら藁に納豆を包み、左右を強く藁で縛って戦地の兄、信長に送りました。
 納豆の左右をギチギチに強く縛ることで、
「このままでは、お兄さまはこの納豆のように前後(左右)挟み打ちにされますよ」
 メッセージを込めて送ったのです。

「納豆がお市の方からのメッセージだと気がついた信長はうまく、逃げることが出来た」
(後付けの作り話かもしれませんが) 
 でも、婚家を裏切った訳でもなく、証拠として残る文や文字をを書いて伝えた訳でもなく、実に巧い方法で兄の信長に命の危機を伝えました。
 このままでは挟み撃ちにされることを、納豆と藁だけを使って兄に伝えたのです。
 素晴らしい機転と発想力ですね。
 気がついた信長も鋭いです。
 戦国時代は勘が鋭くないと生き残れない時代でした。

「有事のときには実家の為に咄嗟に行動することができる」

 武家の娘にはこう言った機転が求められていました。
  武家の娘業も大変です。

 信長は「うつけもの」として有名でした、その曰く付きの信長に嫁ぐには「濃姫がうってつけだ」と道三は考えたかも知れません。
 信長がうつけものでも、そうでなくても、しっかり者の濃姫なら「大丈夫だ」と濃姫は父親の斎藤道山から信頼されていたのかも知れません。

 私は日本史では馬宿皇子誕生あたりから藤原仲麻呂が失脚する時代が一番好きですが、戦国時代も好きです。
 当の私は、とろくてどんくさいタイプなので、戦国時代の姫業は到底務まりそうもありません。

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