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「『帝一の國』どこに納得がいかないか」と「『鉄血のオルフェンズ』のどこが好きか」が同じなので、まとめて話したい。

*タイトルの通り、「帝一の國」のネガティブな感想が含まれています。注意してください。
*「帝一の國」及び「鉄血のオルフェンズ」のネタバレが含まれます。

「帝一の國」は「ライチ☆光クラブ」のアンチテーゼのような話だった。
 11巻の巻末の「マヨネーズ皇帝」は「ライチ☆光クラブ」とまったく同じ話をしている。
「帝一の國」は、最終的には「マヨネーズ皇国」を作った高天原と裕次郎が「ラスボス」になることで、「マヨネーズ皇国」を子供の反抗期だったと結論づけている。

「帝一の國」は、帝一が父親から生徒会長になることを強いられる設定で話が始まるように、最初から「社会(大人)の『正しい』論理に子供が従う話」だ。
 それは明示されているのでそういう話だと思って読んではいたけれど、まさか直前に読んだ「ライチ☆光クラブ」がこんな風に否定されるとは思っていなかった……。

「可愛そうな背景がある子供たちは、反社会的な行為をしても許されるべきだ」というわけではない。(「ライチ☆光クラブ」の感想で書いたとおり)
 ゼラやニコの背景は気の毒で同情するし、共感を感じる部分もあっても、「ライチ☆光クラブ」で彼らが残酷な結末を辿ったことは因果応報だ。
 また「帝一の國」の高校生になってからの高天原と裕次郎は大人の論理に飲み込まれて、どんな手を使ってでも人を陥れようとする。
 だからこの二人がラスボスになって帝一に成敗されるのは特に気にならない。
 だが子供たちが行ったことが「悪」だとしても、大人(親)が子供たちに行った「悪」が免罪されるわけではない。
 それを「反抗期だったから」で片づける展開に(しかも裕次郎本人が)納得がいかない。

 クソなことをしておいて「『お前が子供だから』『お前が反抗期だから』クソなことをせざるえなかった」→「俺がクソなことをしたのはお前のせいだ」というのはおかしい。
 自分のクソさは自分のものだと認めて引き受けることが大人がやるべきことではないだろうか、と無事大人になった自分は思うのだ。

 もう一点「ライチ☆光クラブ」との対比で言えば、ゼラの母親は夫に離婚され、子供二人を抱えて生活が窮乏していた。
 そういう状況なので、ゼラに向き合う余裕がなく傷つけてしまったことはまだしも理解できる。(イカンとは思うが)
 でも「帝一の國」の裕次郎の父親である野々宮は金も権力もあり、弾とは交流する余裕があった。それなのに裕次郎が「反抗期」だったからほったらかしにしていた。
 金持ちで余裕があれば、子供を洗脳することもできるし、洗脳した後に子供の愚行を権力で止めることもできるし、子供に謝る機会も与えられる。
 帝一はいい学校に入れたから「友達が出来たから、父さんの言葉に従って良かった」となった。
 ゼラやニコは、劣悪な環境の中で「光クラブ」しか居場所がなかった。親たちは常に余裕がなく、入院した息子にさえ心無い言葉をかけてしまう。
 だからああいう結末を辿った
 続けて読むと、金と権力があれば親子の絆も買えるという皮肉を感じてしまう。

などと憂鬱な気持ちでツラツラ考えている途中で、久しぶりに「鉄血のオルフェンズ」のことを思い出した。
「ライチ☆光クラブ」と「鉄血のオルフェンズ」は、自分の中で凄く似ている。
 彼らは世界の孤児で、大人たち(社会)から虐げられ見捨てられ、顧みられることなく生きている。だから自分たちを守るために、社会(大人)とはまったく異なる独自のルールによって世界を構築して、そこで生き延びようとした。
 しかしそのルールを統制できなくなり(ルールに統制されてしまい)、結局は自分たちが作った世界によって残酷に殺された。
 自分から見ると、どちらもそういう話だ。(鉄華団は社会に溶け込もうと努力したり、大人たちがその結末を迎えるように誘導している。「オルフェンズ」が孤児たちに感情移入しやすく、「ライチ☆光クラブ」がゼラやジャイボの異常性に目がいくのは、大人たちの事態への干渉具合が大きい)

 自分が「オルフェンズ」の一番好きなところは、大人たちが「子供相手だ」という体面をかなぐり捨てざるえなかったところだ。
 社会(大人たち)は、手段を選ばず本気で鉄華団をつぶしにかかっている。それくらい彼ら(の世界)は大人の世界にとって脅威だった。
「鉄華団」は「光クラブ」と同じくらい暗黙のルールに支配された恐ろしい世界だ。
 どちらの子供たちもそういう世界を作って身を守らざるえなかったところが切ない。(オルガの目的は、この『身を守るために生み出した世界』から仲間を穏当に連れ出すことだったのではないかという話を↓の記事でしている。)

 大人と子供が対等に全力で殺し合うことが通過儀礼となり、生き延びて大人の世界に行ったクーデリアたちが、怒りや失望を子供に抱かせない、「孤児」を作らない世界を作っていく。
 そういう話だった。

 思えば「オルフェンズ」は、自分が子供だからと言って手心をくわえようとした大人(クランク)の言葉を最後まで聞かずに殺す、という描写が、その後のストーリーを表していたなと懐かしく思い出した。

 ただ「帝一の國」に寄り添って考えると、そういうある種の「公平さ」をギャクマンガで取り入れるのは難しかったのかもしれない。
「オルフェンズ」の終わり方も、そうとう賛否が割れたらしいし。

「生き延びるために、大人と子供の世界観が本気で潰し合う話」を作るとしたら、自分はああならざるえないと思う。
 ただそれでももう少し何とかならなかったのか(製作者にではなく、物語の内部視点で)と思うので、鉄華団に感情移入して見ていてラストにわだかまりを抱いた人の気持ちもわかる。
 マクギリス(この人も世界の孤児だよな)も好きではないけれど、あの立場だったら他にどういう生き方が出来たのかと言われると言葉が出てこない。

「オルフェンズ」に限らずだが、岡田麿里の「孤児」の描き方が凄く好きだ。岡田麿里が描く「孤児たち」は、「どこにいても居心地が悪く、世界のどこにも居場所がない」。

 社会(大人)の圧力から逃れるためには、自分が生き延びるためには、別の世界を出現させなければならない。
「孤児」の存在は「社会(大人)の問題」をそっくり問い返す眼差しだ。
 それに気付かず(もしくは気付かない振りをして)「お前が子供であることが問題だ」で片づけるものには、そうところだと言いたい、言いたくてたまらない。

 まあ2700文字かけて言ったので(なげえ)、これで忘れよう。

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