「鬼滅の刃」の公式ファンブック2を読んで、モニョったこととそこから考えたこと。

「鬼滅の刃」は、「自分とはちょっと考え方が違うな」と思うところが多々あるところが好きだ。

「進撃の巨人」と比べたとき、「巨人=鬼」の捉え方や扱いの違いも面白く感じる。
考えがまとまったら書きたいけれど、あえて言うと

「進撃の巨人」が

「自分の中の加害性(巨人)を知り、『自分もまた誰かにとっては巨人である絶望の世界を生きる』なかで希望を見出す物語」

「鬼滅の刃」が

「自分(人間)の中の加害性(鬼)を自分とは別物だと言い聞かせ、『鬼』さえいなければ全て解決と思わなければやっていけない絶望を描いた物語」

だと思っている。

例えば不死川家のエピソードは、暴力をふるう「鬼」は元々は父親なのに、実際に鬼になり実弥が殺さなければならなくなるのは母親だという理不尽さがある。
鬼を精神疾患の病因と捉えた説があることなどから、鬼=平時の状態を保てなくなった人間、と考えると、夫の暴力に耐えきれず、子供にその怒りが向いてしまったという虐待あるあるな構図に見える。(その構図をぼかすために、父親から子供をかばっていた母親が子供に敵意を向けたのは「鬼に変化したせいだ」としている。)

「鬼滅の刃」は虐待やDVの設定が多いが、そこに「鬼」という暗喩を挟むことで正面から語ることを避けている点、正面から語らない(語れない)絶望に面白さがある、というのが自分の考えだ。

「この問題について、深く考えてはいけない。とにかく鬼を殲滅すればいい」という強固な暗示を常にかけ続けているところが疑問であり、そういう疑問を抱いてしまうところが好きなのだ。

「進撃の巨人」と「鬼滅の刃」の「巨人=鬼」の捉え方の違いは、「自分に関わる周囲の出来事に対して、どれだけ自分がコントロールできると思えるか(できないという無力感を感じたことがあるか)」の違いなのかな、などつい考えてしまう。

「鬼滅の刃」は個々のエピソードでも、個人的にモニョるシーンが多い。

自分の中で「鬼滅の刃」で最もモニョったシーンは、「耀哉の子供が耀哉に殉じたこと」(あまねは個人的にはいい)

次点が善逸が獪岳に手紙を送ったこと。

「人と気が合わない」というのは、いい悪い(「俺が悪い」)ではなくて、組み合わせによって生じるただの事象だと思っているので、「好きになることがいいこと」という姿勢でこられると自分もちょっとしんどい。
「俺がいなかったら、獪岳もあんな風にならなかったかもしれない」と言われると、自分が獪岳だったら「お前がいなくても、俺は『こんな風』だ」と思ってしまう。

善逸のことは好きなんだけど、これはちょっとしんどいなあと読んでいて思った。申し訳ないがここだけは、獪岳に同情してしまった。

ただまあ耀哉に関しては、無惨が「本当の化け物はあの男」と突っ込みを入れているし、善逸の手紙エピソードは獪岳と最後まで分かり合えなかったので、この二人の分かり合えなさを強調するためかな、と思えば納得できた。

しかし「公式ファンブック2」で、この二つ以上にモニョるエピソードを見つけてしまった。

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