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寄付は意思表示のひとつの方法。

 石川県で震災のための義援金の受付が始まったので、5日(金)に寄付をした。

※義援金の寄付を騙る怪しい話も出回っているので、寄付は自治体か赤十字にするようにしている。

※ふるさと納税による寄付も受け付けているよう。

 昔はコンビニなどに設置されている募金箱に釣り銭を入れるくらいで、それ以上何かしようと思ったことがなかった。
 有名人のように1000万とか寄付出来るわけでもないし、専門的な知識や能力があって現地で救援や支援が出来るわけでもない。
 ニュースにならない時、ならない分野でも継続的に支援活動をしている人がいるのに、思いついた時に寄付するだけなんて、その場限りの自己満足じゃないか、他に何も出来ないことへの免罪符にしているのではないかなど余計なことを考えていた。

 その考えが変わったのは、アフガニスタンのタリバン政権下で教育や仕事、医療を受ける権利を奪われる女性たちの話を読んだときだ。
 宗教は理屈ではないので、その場所に住む人たちが長い年月をかけて培った総意によって守っている信仰や戒律は尊重すべきだと思う。
 だが少し前まで認められていた権利が、一夜で強制的に奪われるのはおかしい。
 もし自分が昨日まで労力や時間をかけて取り組んでいたことを、属性を理由にして奪われたら。
 考えるだけでも耐え難く、憤りを押さえられない。
「自己満足ではないか」
「こんなことをしても意味がないのではないか」
など思う暇もなく、自分の中の「それはおかしい」と思う気持ちを表すために光の速さで募金した。
「それはおかしいと思っている人間がここにいる」
ということを、形にして示したかった。

 その時から「寄付は意思表示ではないか」と思うようになった。
「被災地のため」「紛争被害者のため」「困難な状況に苦しむ人のため」という目的はある。
 だがそれより手前の「支援したい」「被害を受けた場所を復興させたい」という気持ちは自分自身のものだ。
「自己満足だから」
「(少額では)意味がないから」
という理由で自己表現や意思表示を止めるなら、そもそもブログやnoteで長文で自分の考えたことを延々と書きつらねることもやめている。
 何かが変わる、誰かに届くというのは結果論でしかない。
 ブログを書くときは、鼻息荒くそう言っているのに。(セルフツッコミ)

 世界各地、日本各地で紛争や災害は起こっていて、自分がその時々でやることは何の意味もないかもしれない。
 それでも自分に出来る範囲で何かをすることは、それが微々たることでも(前回書いたように「自分は今の段階では何も出来ないと認めて見守るという判断をすること」も)支援の気持ちの意思表示になると思う。
 自分も紛争や災害に巻き込まれるなどの劇的な状況の変化に対して、無力でなす術がない人間だ。
 だから「自分と同じ立場の人を支える意思」を自分に出来る限りの範囲で示したい。

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