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「婚活で、男が身長を書かされることの是非」とそこから派生した話題について思ったこと。

 少し前からはてなで「婚活(恋人探し)で、女性が男性に身長を条件として明示することの是非」の話題が盛り上がっている。

 もともとは「増田で婚活をする増田(女)」(以下婚活女性増田)が、相手の条件に身長を明示したことから話が派生している。

*現在は身長の条件は削除した模様。

 恐らくその件を受けてだと思うが、低い身長男性の当事者である婚活経験者増田が「婚活パーティーの応募条件とか、恋愛系のアンケート記事なんかで『年収』『学歴』『身長』と当たり前のように並べられてるのは嫌なんだ」「身体的特徴に対して無遠慮じゃね?とは思う」という意見を書く。(以下「男の身長増田」)

 個人的に身長が高い方が好きな人がいるのは全く問題ないと思ってる

と言っているように、「男の身長増田」が疑問を持っているのは、「女性個人が、相手の男に高い身長を求めること」ではない。
「それを最初から婚活条件として会社側が提示するように求めてくること」→転じて「男が身長を明示することは結婚の条件として必要」ということが社会的に容認されていることに疑問を呈している。
 

 女性のバストサイズに例えている人がいたが、自分は「出産能力の証明書」を思い浮かべた。
 相手に求めることは個人の自由(当人同士の問題)だが、結婚相談所が記載を求めたり、不特定多数の人が見るところで明示するものではないと言われればその通りだなと思った。
 自分も「男の身長増田」を読むまでは、そこまで深くは考えていなかった。大変申し訳ない。

「男の身長増田」は自分が当事者だから問題意識を持った、ということはあるかもしれないが、最初の増田を読んでも追記を読んでも「個人間の話」ではなく、「人の身体的特徴を条件として設け、それを不特定多数に向けて(社会的に)明示するのはよくないのではないか」ということを言っている。

 ちょっと驚いたのだが、そのトラバとしてこういう増田がついている。(以下「そんなに困っていない増田」)

「男の身長増田」は、女性から選ばれないことを嘆いてるわけでもない。

婚活パーティーの応募条件とか、恋愛系のアンケート記事なんかで「年収」「学歴」「身長」と当たり前のように並べられてるのは嫌。

と言っているのだ。
 社会構造について言及しているのに「お前の努力次第で、その構造の中で勝者になれるぞ。実際に俺はなった」と返されているのだ。自分だったら誤爆を疑うレベルだ。

 自分は「こちらが話していることを聞こうとせず、勝手に自分の話をする人間」がとてつもなく苦手だ。確信犯ではなく、何の悪気もなく「いい話をしている態」だとさらにキツイ。(自分がされた場合は、心のスイッチを切る)

「相手の立場に立って」というのは、「相手に優しくしろ」という意味ではない。
 まずは自分の主張や意見をいったん押さえて、相手が何を言いたいかを考えることだけに注力をすることだと思う。

 自分の個人的な好みで言えば、「そんなに困っていない増田」よりも「男の身長増田」のほうが人として魅力を感じるし好ましく思える。

頂いたコメントの中に「むしろ婚活の場なら女性もバストサイズ書いてないと身長でフィルタできないとかそういう制限つけて公平性を作り出すとかくらいしか思いつかん」というものがあった。コメントしてくれた人には申し訳ないが論外かと思う。
バストサイズを書かれても俺は嬉しくないし女性の負担が増えるだけに思う。

 自分が「身長を書かされること」に不利益を被っているにも関わらず、「女も同じ目に遭ってみろ」のようなミラーリングをせずに、「自分にとって負担なのだから、女性にとっても負担だろ」と言えるところがいい。

 自分にとって「人として好ましいと思う人」はこういう人だが、「困っていない増田」が「魅力的」と言われているのを見ると、人の好みは本当に色々だなと思う。

恋人を作るのに向いているかどうかと良い人間であるかは別の話だと理解している

 これも「そうだな」と思った。
 今回の件を見ても、自分が考える「人間的魅力」と他の人が考える「人間的魅力」はまったく違う。
 逆に「人間的魅力」にある一定の普遍性があるならば「正しい方向に行けば相手が見つかる」と言っているようなもので、それこそ恋愛や結婚における「個人の好み」という要素を無視している。

 自分が「恋愛力は人間的魅力に依拠する」のような言葉が好きではないのは、恋愛や結婚(それにまつわる自分が人を選ぶ感覚)は普遍的な(社会的な)正しさと一致しているはずだという発想に疑問を感じるからだ。
 恋愛や結婚の相手選びは、例えて言うなら酔っ払いが打つ博打くらい勢いだけの適当でいい加減なものだというのが自分の意見だ。(選ぶ際は考えたつもりでも、「相手がどんな人間か」は何十年経ってもわからない。親兄弟ですらよくわからない)

 端から見たら物凄くどうでもいいことで、人は人をただ好きになる。
 そしてものすごくどうでもいいことから始まったことがあっという間に終わったり、人生そのものになったりする。
 そこには理屈も普遍性もない。個人の事情からくる勢いと好みからくる結果論があるだけだ。

 ただ個人の事情や好みが介在するのはあくまで個人間の話で、身体的特徴を記載することをサービス会社が求めることは自分もなくしたほうがいいのではと思った。


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