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「マヴァール年代記」が田中芳樹の最高傑作である理由を、今から1万1500文字かけて語ります。

◆ン十年ぶりに読んだ「マヴァール年代記」が余りに面白すぎて興奮が治まらない。

 田中芳樹の作品の中でも一、二を争うくらい好きな「マヴァール年代記」をン十年ぶりに読んだ。
 もの凄く面白かった。読んでいるあいだ、興奮して立ったり座ったり部屋の中をうろうろしたりしていた(面白い作品に出会うと挙動不審になる)
 十代の時にこの作品に出会って何十回と読んでいるが、今までこの話の面白さを何もわかっていなかったんだなと痛感した。読み直して良かった。
 自分が読んだ田中芳樹の作品の中では最高傑作だと感じた。

*六年前考えた10選

「マヴァール年代記」の面白さは、架空戦記のガワを被せた心理小説であり、そのガワを最後まで取らない作りにある。
「マヴァール年代記」は心理小説なのだ。
 そのことに今回気付いて、滅茶苦茶ビビった。
 
物語を支配する強力な因果律に、田中作品に通底している「人生は自己の意志と能力と理性によってのみ形成される」という精神性を内面化している登場人物が挑む、苦悩と葛藤を描いた話なのだ。
 本筋を表に出さないでストーリーが成り立つなんてそんなことがありうるのか。
 そう思うが成り立ってしまっている。「架空戦記物」として読んでも滅茶苦茶面白いからだ。特に一巻の完成度は凄い。

 ここからはネタバレ感想になるが、「マヴァール年代記」を読んだことがない人には何が何だかまったくわからない内容だと思う。
 全3巻電子書籍なら1100円で買えるので、読んだことがない人はぜひぜひ読んで欲しい。

*以下ネタバレ感想。滅茶苦茶長い。


◆「マヴァール年代記」のストーリーで起こる事象は、全てひとつのことが原因で起こっている。

「マヴァール年代記」はマヴァール帝国と周辺の国々の動乱を描いた戦記物である。だが驚くことに、この周囲の国々を巻き込んだ戦乱はすべてひとつのことが原因で起こっている。
 冒頭に起こったカルマーンによる「父殺し」である。
「皇帝が死んでカルマーンが跡を継いだことによって、動乱が起こった」
という現実的な意味ではなく、ストーリーの内面的に「カルマーンの父殺しが、他の登場人物たちの行動に影響を与えている(因果律によって支配している)」という意味である。
 カルマーンの「父殺し」が、他の登場人物たちの行動を支配していること(因果)が明示されているから、「マヴァール年代記」は心理小説なのだ。

 例えばヴェンツェルが野心を実現させようと決意したのはカルマーンの父殺しを知ったからである。

「やはりそうか。カルマーンは父親を害したのだな(略)」
 認識が確立したとき、ヴェンツェルの内心で、一匹の小さな竜が頭をもたげた。竜の名を「野心」という。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P23/太字は引用者)

 ヴェンツェル以外の登場人物たちも「カルマーンの父殺し(時代の毒)」によって狂ったことが明示される。

 リドワーンはホルティの言葉を想起せずにはいられなかった。
「時代の毒が人を酔わせる」そうとしか表現のしようがないギカの様子である。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P499/太字は引用者)

 ギカだけではなくシミオン、ゾルターン、ラザール、エセルベートといった人物たちも「時代の毒」に狂い、彼らが起こしたことがマヴァールとその周辺の国に争乱を招く。
 その「毒」はカルマーンの罪から生まれている。

「わが知己たるホルティが申しました。時代の毒が人を冒すのだ、と(略)」
「つまり世の乱れは、このカルマーンのせいだというのか(略)」
「むろん、そうは申しませぬ。ただ、陛下が時代を領導なさったことは事実で、何人といえどもそれを否定することはできますまい」
「ふふ……後世の者は、この時代を指してカルマーンの時代と呼ぶ、と。そう空想してみるのも一興だな」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P495/太字は引用者)

「時代の毒」はカルマーンの父殺しに端を発したものである。その毒がカルマーンを変質させ、カルマーンの変質が他の登場人物たちにも波及していく。
 カルマーンは父親殺しをする前は、勇猛であってもその力を無闇に振るう人間ではなかった。

 アールモシュ老公は、真剣にリドワーンの話を聞いた。
「カルマーン大公、いや、皇帝陛下は勝者としての名声を貪欲に求めるようなお人ではなかった、と、おぬしは考えるのじゃな(略)おぬしの考えに、わしも賛成じゃ。皇帝陛下は以前より英武のかたであったが、いたずらに武力を用いるかたではなかった(略)軍は凶器じゃ。カルマーン陛下はご年少のころよりそのことをご承知であった。勇者であったが、暴将ではなかった」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P266‐267/太字は引用者)

 物語として読むと、カルマーンは仕掛けられたことを逆手に取って他国を滅ぼしているので、さほど非難すべきことのように見えない。
 だがツルナゴーラやクールラントに対して、相手には受け入れようのない要求を居丈高にしてそれを口実に攻め込むという強引で悪辣なことをしている。
 物語のコンテクストを外して見ると、アールモシュやリドワーンが懸念するように「貪欲に名声を求めて、凶器である軍をいたずらに用いる暴将」という評も妥当に思える。

 リドワーンはカルマーンを変質させたのは、「父の死にまつわる毒」ではないかと気付いている。

(略)玉座をえて自信をつけた。
 そのような表面的な事情はあるにせよ、それだけで為人(ひととなり)に変化が生じるとは思えぬ。何か他者の知りようのない失地を回復しようとして、むりをしているように思えるのだ。
 それは、先帝ボグダーン二世の急死と、何か関係があるのだろうか。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P268/太字は引用者)

 リドワーンはカルマーンが父親を殺したことまでは気付いていない。だがそれ以外はほぼ真実を見抜いている。

 カルマーンは父殺しの罪は、皇帝として善政を敷く以外に償えないと考えている。
 だが善政を敷く範囲は、マヴァール一国では足りない。
 自らの父殺しの罪の償いができたと思うためには、周辺の国々全てを含んだ領民に善政を敷かなければならない。
 カルマーンが他国を無理な方法で征服するのは、より大きな版図を作り、そこの皇帝である自分の庇護下に入った全ての人間を幸福にするためである。
 他国の王たちにとっては迷惑である。
 だが領民にとっては(あくまでこの作品においては)善政を敷いてくれるのであれば侵略されようが構わない。 

「国は王のもの、民は税を納めるだけ」
 極端に言えば、中世的な国家のありようとは、そのようなものである。善政とは、税が安く、また異国の異兵に畑を荒らされたり家を焼かれたりせぬ状態である。
 マヴァール軍の軍律は厳格をきわめ(略)ツルナゴーラ人は胸をなでおろした。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P343)

 税が安くて治安が守られ日常が送れれば、統治者が誰であろうが構わない。
 そういう領民の世界観にのっとって、カルマーンは他国も含めなるべく多くの人々に善政を敷く皇帝になろうと無理をする。
 そうしなければ犯してしまった罪を償えないからだ。


◆ヴェンツェルが皇帝位を簒奪しようとするのは、既に皇帝位を簒奪しているからである。

「犯してしまった罪を償うためには、皇帝となり善政を敷くしかない」
 このカルマーンの行動原理について語るのは、カルマーンではなくヴェンツェルである。

 野心という美しい精霊に恋した以上、その歓心を得るために、ヴェンツェルは模範的な恋人になるしかなかった。
 この精霊は、同時に邪竜としての一面を持っており、その一面は、先帝ボグダーン二世の死によって、ヴェンツェルの心底に、鎌首をもたげたといえる。
「帝位を奪う。奪った後、よき政事をおこない、決して民に不幸を強いぬ。おれに罪があるとしたら、よき皇帝になることによって償うしかない」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P233/太字は引用者)

 ヴェンツェルは不思議なキャラだ。
 一見複雑で屈折した人物に見えて、よく読むと複雑な心理背景をまったく持っていない。
 ヴェンツェルが友人であるカルマーンを倒してでも皇帝になりたいという野望を持つのは「野心という精霊に恋をした→そもそもそういう人間だった」という説明以外にない。
 皇帝になって世の中をこうしたいという思いすらない。むしろ皇帝になったら、友人であり主君でもあったカルマーンを殺して皇帝位を簒奪した罪を償わなければと考えている。
 ヴェンツェルにとって皇帝になることは手段ではなく目的なのだ。その目的を達成した暁には、その目的についてくる罪を償わなければと考えている。

 カルマーンに対して個人的には何も屈託を持っておらず、何かを成すための方法としてでもなく、権力欲からでもなく、ただ皇帝になりたいから主君であり友人でもあるカルマーンから皇帝位を簒奪しようとする。
 しかも「元々そういう人間だった」と言う割には、その野心が形になったのはカルマーンの父殺しを知ってからだと言う。
 ストーリーで書かれたことだけを読むと、ヴェンツェルというキャラが皇帝位を簒奪しようとする理由は無茶苦茶である。 

 なぜ、ヴェンツェルが皇帝位を簒奪しようとする理由が無茶苦茶なのか。      
 既に皇帝位を簒奪しているからだ。
 ヴェンツェルはカルマーンの鏡像なのだ。
 だからカルマーンの鏡像であるヴェンツェルもカルマーンと同じように、ボグダーン二世の死と共に皇帝位を簒奪している、その罪を既に背負っている。
 そういう本来の構図に(作内)現実を合わせなくてはならない。そのために皇帝位をこれから簒奪しようとしているのだ。

 ヴェンツェルは鏡像として、最終的にカルマーンと対峙しなければいけない。

 どちらが玉座についても、大陸の列王にひざまずかせるにたるふたりの男が、鏡に映る自分の像を相手に斬り結んでいる。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P568/太字は引用者)

 この絶対的な結論が先に存在するために、(ストーリー上の)現実がそれに合わせなければいけない。
 
ヴェンツェルが理由になっているようでなっていない訳が分からないこと(としか思えない)を言いながら皇帝位を簒奪しようとするのはそのためである。


◆ヴェンツェルというキャラの不思議さ。

 ヴェンツェルは、鏡像として最後にカルマーンと対峙しなければならない。
 そのため本来の構図では「父・主君殺し(友・主君殺し)という罪に苛まされ、その罪を償うことに邁進する」という心理背景をカルマーンと共有している。(「カルマーンにも野心がある」と書かれているように、ヴェンツェル側で強調されている「野心」も共有している)
 だが作内で罪の意識に苛まれているのはカルマーンのみであり、ヴェンツェルは主君であり学友でもあるカルマーンから皇帝位を簒奪するという罪の意識をまるで持っていない(言葉では言っているが、心がこもっているようには見えない)

 ストーリー内で再三再四繰り返しているように、ヴェンツェルはカルマーン個人には何の感情も持っていない。
 ヴェンツェルは「カルマーンに対する個人的な感情が皇帝位を簒奪するモチベーションではない」ことは強調するが、そもそも二人は子供の時からの親友同士なのだから個人的な感情がないはずがない。
 フォーカスするべきは「負の感情がないこと」ではなく、友人から皇帝位を簒奪することに心の痛みや葛藤はないのか」ではないか。
 最終的には野心を取るにしても、その過程で悩みや苦しみが生じるのが普通ではと思うが、ヴェンツェルはそういうものがほぼない。

 ストーリーを読んだ限りでは、ヴェンツェルがカルマーンに抱いている感情は本人が言う通り、「憎しみはない」以上でも以下でもない。
 リドワーンと三人で悪さをしたり旅をしたりした仲であるにも関わらず、ヴェンツェルは皇帝として以外の個人としてのカルマーンには一切関心がない。
 これは異様なことだ。
 さらに異様なことに、ヴェンツェルはカルマーンに対してに限らず、ほとんどどんな葛藤も持たない。
 自分が皇帝位を簒奪しようとしたら、リドワーンやアンジェリナの立場はどうなるのか。そういう私人としての苦しみはもとより、公人としてマヴァールという国をどう思っているのか、世界をどう見ているのか、そういう観点もない。
 ヴェンツェルは(カルマーンと共有しているはずの)罪の意識に限らず、複雑な心理のようなものをまったく持たない。
 ただただひたすら皇帝を目指して、権謀術策を駆使するだけだ。それ以外のことを考えている様子がない。

 なぜヴェンツェルが複雑な心理背景を持たないのか。
 理由は二つある。
 ひとつは前述したように、ヴェンツェルは心理背景をカルマーンと共有しているためだ。
 だがヴェンツェルは深層下ではカルマーンの鏡像ではあるが、表層ではカルマーンとまったく似通ったところのない別人物である。ヴェンツェルにはヴェンツェル個人の設定(主君を裏切る、仲のいい妹がいるなど)から生まれる葛藤や負の感情があるはずだ。
 それらはどこに行ってしまったのか。
 すべて他のキャラに振り分けられている。
 その振り分け先が、ヴェンツェルの雛形であるラザールである。


◆ラザールはヴェンツェルの影絵である。

 ラザールは本来、ヴェンツェルがその設定や行動上、背負わなければいけない負の側面をすべて引き受けているキャラである。
 ヴェンツェルが行う陰謀は基本的には、ラザールが企んでいることの裏をかく、もしくは利用することが多い。
 作内の陰謀の具体的な描写の部分(暗く悪辣な部分)は、すべてラザールが引き受ける。ヴェンツェルはラザールの所業を利用する形で事を行い、その所業は地の文章でさらっと語られるだけで済まされ、次の展開につながる。

 ラザールは、皇帝の勅使として現れたオルブラヒトに国益よりも自分の野心を優先することを非難される。

「たまたまその国に生まれたからといって、なぜその国に忠誠をつくさねばならんのだ。おれはエルデイに貸しこそあれ、恩義など受けた覚えはない」(略)
「だが、おぬしは宮廷の高官としてエルデイの禄をはみ、特権を享けてきた身ではないか。恩義がないと主張するのは、つごうが良すぎるというものであろう(略)エルデイ一国を食いつぶす権利が、仮にエルデイ人たるおぬしにあるとしても、他国に兵火をおよぼし、他国人を傷つける権利などなかろう。おぬしの行為は非とせざるえぬ」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P487-488/太字は引用者)

 作内でヴェンツェルは「ラザール如きと一緒にされたくない」とよく口にするが、それは能力的な話であり、道義的にはヴェンツェルもラザールもまったく同じことをしている。
 オルブラヒトのラザールに対する弾劾は、メタ視点ではヴェンツェルに対するものでもある。

「おぬしの言を聞いていると、ふふふ、ラザールとやらいう人物はとうてい生かしておくわけにはいかぬようだな。だが、悪党たるゆえんは悪あがきをするところにある。おれとて例外ではないぞ(後略)」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P488/太字は引用者)

 オルブラヒトに正論で詰められたラザールは、「その通り、自分は悪党だ」と開き直る。
 ラザールやヴェンツェルのように、自身の野心のために国や恩義や道理を無視する人間は悪党なのだ。
 カルマーンを含め「時代の毒」という因果律に支配された人間たちは皆狂い、悪党になっていく。
 だがヴェンツェルだけは、その時代の毒に狂わされているにも関わらず「悪党」になれない。

「姫、貴女の兄上は悪党ではない。悪党になりたがっているだけだ」 

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P108/太字は引用者)

 リドワーンがアンジェリナに対して指摘したように、ヴェンツェルは悪党にはなれない。ヴェンツェルには「鏡像としてカルマーンと対峙しなければならない」という役割があるからだ。
「主君であり友人でもある人間を裏切って皇帝を簒奪するために、ありとあらゆる方法を使って他人を陥れる」という醜悪な悪性とそこから生まれる葛藤を背負っていては、カルマーンの鏡像にはなれない。
 だから「自分の野心のために、陰謀をめぐらして他人を容赦なく陥れ、主君も国も裏切り、同僚を陥れる」という悪辣さ、最期には全てを失う惨めさ、そのすべてを雛形であるラザールが代わりに背負うのだ。

 オルブラヒトのラザールに対する弾劾は、一般的に考えればリドワーンからヴェンツェルになされるべきものである。
 しかしリドワーンは「ヴェンツェルが聞くわけがないから」という謎の理由で、ヴェンツェルの心境をほぼ正確に推測していながらまったく忠告しようとしない。
 リドワーンがヴェンツェルに面と向かって真情を問いただすと、

 自分の正しさを主張するために、死者を貶めざるえぬ。それがラザールの境遇であり、死せるオルブラヒトに対して彼がついに勝ちえぬ理由であった。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P492/太字は引用者)

リドワーンとヴェンツェルの格付けが明確になってしまうからだ。
 リドワーンに勝てないのであれば、カルマーンの鏡像にはなれない。この話において、カルマーン、ヴェンツェル、リドワーンが対等であるということは前提条件だからだ。
 三人が対等だからカルマーンとヴェンツェルはお互いをお互いの鏡像として対峙出来るし、二人が倒れた後にリドワーンが皇帝に即位できるのだ。

 そのためリドワーンが言う通り、ヴェンツェルはどう頑張っても「悪党」にはなれない。
 だが本人としては「悪党」になりたい。ヴェンツェルの本当の姿はラザールだからだ。
 作内でヴェンツェルは徹頭徹尾ラザールを馬鹿にしているが、それは自分の疑似絵だからだ。ヴェンツェルがラザールに向ける感情が、本来ヴェンツルが抱えるはずだった葛藤や自己嫌悪だったのではないか。
「カルマーンの鏡像として対峙しなければならない」という役割ゆえに、感情をすべて他キャラに振り替えられ、カルマーンへの友情を喪失し、友人であるリドワーンには放っておかれ、「本来の自己=悪党」になることも出来ない。
 ヴェンツェルは構図的に見ると、かなり不遇なキャラである。

 ラザールはヴェンツェルの雛形だけあって複雑な感情的要素を持つキャラではないが、オルブラヒトに対しては憎悪を抱いている。

 ラザールは歯ぎしりした(略)
 そう己に言い聞かせたが無念は晴れず、その思いは内攻して、オルブラヒトに対する憎悪の念が強まった。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P453/太字は引用者)

 本来はヴェンツェルとリドワーンの関係はこういうものなのだと思う(ラザールを討ったのがカルマーンでもヴェンツェルでもなくリドワーンであるところを見てもそう感じる)

 カルマーンが父殺しの罪を打ち明けようかと考えるのも、リドワーンだけである。

 カルマーンの心に、ふと衝動がうごめいた。(略)
 彼カルマーンが悪虐な父親殺しであることを。リドワーンはカルマーンに対して、どのような思いをいだくであろうか。(略)
 彼の正体に対する評価を、旧友から聞いてみたかった。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P58/太字は引用者)

 リドワーンは皆から正しさの象徴として見られ、時に頼られ時に疎まれる。
 シミオンやギカがリドワーンに向けた嫉妬や憎悪は、カルマーンやヴェンツェルの中にも眠っている。(シミオンーゲルトルートの構図は、ヴェンツェルー野心と同じである。ゲルトルートに対する評が、ヴェンツェルの野心に対するリドワーンの考えだとすると、何も言わないでいる気持ちもわからないでもない)
 リドワーンはそれに気付いているために、友人二人に対してすら余計なことは言わずひたすら逃げ回っている。
 作内でも指摘されているが、リドワーンはフェレンツに対する助言といい事なかれ主義がひどすぎる。なぜやたら持ち上げられるのかよくわからないが、話の落としどころとしてそうなっているのだと思う(と思うしかない)


◆それでもヴェンツェルは面白い

「カルマーンと鏡像として対峙する」という絶対的な役割のために、人としての主要な要素を奪われている。
にも関わらずヴェンツェルはとても魅力的で面白いキャラである。
 自分がヴェンツェルが面白いと思う理由は裏表がないところだ。
 作内で「悪癖」と指摘されている通り、ヴェンツェルは「こうだろう」と思うことを先回りして言ってしまう。
 言い方が面白いので聞いていて飽きないし、前述したように複雑な心理背景を持っていないのでその裏でどんな思いを抱えているのかと勘ぐる必要がない。
 辛辣で皮肉屋、冷笑癖があるところは「銀河英雄伝説」のロイエンタールを彷彿させるが、ロイエンタールが「どんなモチベーションで喋っているんだ」と勘ぐりたくなるのに比べると、ヴェンツェルは言ったこと以上のことは考えていない。
 作内に「繊弱と誤解されている」というような言葉があるが、選帝公会議の様子を見ると言いたいことを言いまくっているので、誰も誤解なんてしていないと思う。
 選帝公会議の様子で、ヴェンツェルがどんな人間か、他の選帝公がどんな人間かがすぐにわかるのが凄い(小波感)


◆「マヴァール年代記」が描いている心理は何なのか

 今までの話をまとめると「マヴァール年代記」は、
・「父殺し」の罪を償わなくてはいけない、そのためには皇帝となって多くの人々に対して善政を敷くことでしか償えないというカルマーンの思いが、物語の因果律を編んでいる。
・最後に「同じ罪を背負う人間=自分の鏡像」と対峙し相討ちになることでその因果律を終息させ、自己に平穏をもたらす。
こういう話である。 

 作内では、カルマーン以外にも主君や兄を裏切ったり殺したりする人間が出てくる。
 またカルマーンの父親であるボグダーン二世は陰険な人間で、息子たちを疑いいびって楽しんでいた。カルマーンの二人の兄は父親にイビり殺されている。
 カルマーンと兄二人が父親から受けた仕打ちは、今日で言えば明らかに虐待だ。
 にも関わらず、カルマーンは父親を殺した罪に苦しみ続ける。
 何故か。


◆運命は存在しない。すべては自分の意思だ、という呪縛

「マヴァール年代記」はカルマーンによって行われた父親殺しによって因果が編まれている。
 父親から虐待されていたとしても、その状況に強いられたわけではない。
 自分は自分の意思で父親を殺したのだから、罪がある。
「マヴァール年代記」でカルマーンを追いつめ苦しめるのは、冒頭で述べた「運命論の否定」という原理である。

 運命が否定されているのだから「カルマーンが時代(毒)を領導している」というリドワーンの台詞が表すように、作内で起こることはすべてカルマーンの父殺しの罪が原因(のせい)になる。
 エフェミアが殺された時、カルマーンは神(天帝)に「俺に罪があるなら俺を殺せ」と叫んだ。カルマーンは自分の周りに振りかかる不幸をすべて自分の父殺しへの罰(自分の責任)と考える。
 ドラゴシュが領民を虐げるのは自分のせい、エフェミアが殺されたのは自分のせい、アデルハイドを幸せに出来なかったのも自分のせい、時代の毒で次から次へ人がおかしくなるのもすべて自分のせい。
 だから何とかしなくてはいけない。
 当たり前だが他国の人間がおかしくなることまでカルマーンに責任があるわけがない。仮にそうだとしても他人のことをどうにかするなど不可能だ。

 だが運命論を否定する「マヴァール年代記」の世界では、「こういう時代だからみんなおかしくなる」のような曖昧な結論は許されない。
「みんながおかしくなる時代になった原因(責任)の所在」を追及する。
「時代の毒を作った」という責任を背負って死ぬことで、初めてカルマーンは罪を償い、平穏を手に入れることができるのだ。


◆なぜありもしない罪や責任を背負ってしまうのか

 カルマーンの自罰感情の強烈さを表しているのが、ドラゴシュとの戦いの章タイトル「弑逆者対弑逆者」である。
 ドラゴシュは自分の権力欲のために主君と兄を殺し、領民を虐待する野獣のような人間である。
 カルマーンが父親を殺したのは、幼いころからの虐待にギリギリまで耐えていたところに神経を逆なでするような試し行動を取られたからだ。その罪を償うために良い施政者、良い主君になろうとしている。
 一体なぜその二人が同列に並べられてしまうのか。

 ラザールがオルブラヒトから罪を糾弾された時に、こんな文章が出てくる。

 この期におよんでラザールは停止も後退もできなかった。
 それが可能かもしれぬ、と一瞬でも思ったのは、自分でも信じがたいほどの弱気の発芽であった。この芽を摘み取らない限り、ラザールに勝利はない。

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P489/太字は引用者)

 違和感がある文章だな、と思って三回くらい読んでしまった。
「野心を諦める」「このまま突き進む」の対比で見ると、確かに前者が弱気、後者が強気に見える。
 だがよく読むと「野心を諦める(停止と後退)」がラザールにはできない・不可能だ、と言っている。つまり自分の意思の力ではどうにもすることはできない、流されることを「強気だ」と言っているのだ。

 一体どういうことなのか。
 ラザールは自分自身の意思の力では、野心を諦めることはできない。「できない」のだから、それは強気ではなく受け身などちらかと言えば弱い姿勢である。
 だがラザールは「野心のまま突き進むことしか出来ないことこそ弱気」と認めることが出来ない。
 だから「出来ないことを強気」にするために、「出来ること→野心を諦めることを弱気」と強弁している。
「出来ないことではあるが、後退や停止は弱気」と定義づければ、自然とその反対である後退や停止をせず流されることは強気になるからだ。

 ここまでくるとおなじみの

「男らしさー主体ー責任ー悪」の呪縛である。

「幼いころから虐待されていた被害者」としての自分をカルマーンは認めることができなかった。
 カルマーンが持つ「被害者としての自分を認められない価値観」を、ヴェンツェル(ラザール)とリドワーンも共有している。だからヴェンツェルは「悪党になりたい」し、リドワーンはストゥルザの「私の芸術を理解しようとしない奴らが悪いのだ」という言葉に対して

「わかった、わかった。全部、他人が悪い。おぬしはまったく悪くない。だからアールモシュ公のところに行こう」

(「マヴァール年代記」田中芳樹 創元社 P97/太字は引用者)

こういう揶揄を返すのだ。
 他責思考は「マヴァール年代記」の中で最も忌まわしいものであり、その忌避感がカルマーンを苦しめる世界を作り上げている。
 自分もストゥルザのような被害者意識と他責思考の塊のような人物は大嫌いだが、それを鑑みても「マヴァール年代記」の世界観は極端すぎる。
 リドワーンはともかく、カルマーンもヴェンツェルも好きだが……というより、好きだからこそ何もそんなに責任を背負って自分を追い詰めなくても良くないかと思ってしまう。


◆まとめ

「マヴァール年代記」は、滅茶苦茶面白い戦記物としてのストーリーの底に、マヴァール帝国及びその周辺の国の領民全てを幸福にする善政をしかなければ自分の罪は償えないという、カルマーンの強烈な自罰感情が眠っている物語である。
 底に流れるカルマーンの暗い心理はほとんど水面に出てこない。
 だが、リドワーンに父殺しを告白しようか悩むシーン、エフェミアが殺された時のカルマーンの衝撃を見れば、それがどれだけ深く苦しい感情だったかがわかる。
 大人になって改めて読むと、カルマーンの暗く孤独な苦しみが伝わってきて胸が痛い。
 架空戦記物としてでもいいが、出来ればオセロやマクベスのような心理小説として末永く残って欲しい。

 大好きなアデルハイドについて読むために再読したのだが、心理小説としての「マヴァール年代記」を発見できてよかった。
 アデルハイドについては、ボクダーン二世の人物像やリドワーンの事なかれ主義ぶりと共に別の記事で書こうかなと思う。

*と言いつつ、何故かヴェンツェルについて語る。


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