「『推し』という概念の問題点と、それが究極的にはどこに行き着くか」を描いた漫画「葬式帰り」が凄かった。

 前回「推しという概念の危うさはこういうことでは、ということがこの漫画を読んでわかった」という記事を書いた。(*あくまで自分個人の考え)
 その時に紹介した「遠い日の陽」と同じ作者さんが支部で描いている「葬式帰り」という漫画を、コメント欄で紹介してもらった。(ありがとうございます)
「葬式帰り」は自分と他人を境界を危うくしてしまうほど密着させてしまうことの何が恐ろしいか、なぜそうなってしまうかが事細かに描かれた漫画だ。
 元々力のある作家さんだったんだなあと納得した。

 未成年同士の性行為や性虐待の描写を含むR18指定の漫画なのでリンクは貼らないけれど、18歳以上で興味があるかたは支部で検索して読んで欲しい。(18歳未満は読んじゃ駄目だぞ)

 以下「葬式帰り」を読んだ感想。(ネタバレ注意)

 第一話を読んだ時、「光の死んだ夏」を思い出した。
「光の死んだ夏」の感想で、「主人公のよしきにとって、村(世界)のほうが異質であり、異様な生物である光のほうが確かで安心感をもたらすものだ」と書いた。
 この構図が明確なため、「光の死んだ夏」は自分にとってはホラーではなく恋愛漫画だ。
 自分という存在への不安に対して、無条件に無限の承認や安心感を与えてくれ、心に安定をもたらしてくれる他者を求めるのが恋愛である。カジュアルな言い方をすれば「居場所を与えてくれるもの」だ。
 恋愛は他の関係とは違い、開かれることではなく閉じることを指向する。
「二人」という最小単位で閉じることで、世界を揺らがす不確定要素をなくし、安定をもたらすのだ。

「光の死んだ夏」や「葬式帰り」は、世界を異質に描くことで主人公たちの存在不安をより大きくしている。
 存在不安が大きいから、「自分に安心を与えてくれる確たる存在」「二人きりの閉じた関係→より安定した世界」を強く求めてしまう。
 主人公二人がなぜそんなに密着して生きなければいけないか、というエクスキューズとして世界が不安定になっている(もしくは、主人公たちの主観ではそう見える)

 この二作が違うのは、「葬式帰り」は相手役が「無条件に受け入れてくれる他者」ではなく「無条件に受け入れてくれと迫ってくる他者」なことだ。
 自分にとって「光の死んだ夏」はさほど好みではない恋愛漫画だが、「葬式帰り」は背筋が寒くなるサイコホラーである。

 人間関係のひとつの類型として、罪悪感を感じやすい人と無価値感を感じやすい人に分かれるのではないかという話を書いたことがある。

 無価値感は人と距離を近づけたがる。自分には価値がない(力がない)と感じているため、魅力を感じるもの、力があるものと密着して一体化したくなる。
 罪悪感は人と距離を取りたくなる。自分は悪いものであり、相手を傷つけ壊しかねないから、自分が価値を感じるもの(人)であればあるほど離れたくなる。

 配分に差はあれ、誰もがどちらの感覚も持っている。
 仕事で自尊心を削られては立ち直ることを繰り返したり、恋愛で大失敗をやらかしたり、友達や家族とうまくいかなくなったりしながらも、人に支え支えられ、受け入れ受け入れられを繰り返して、自分の内部でバランスを取りながら存在不安に対処している。

 しかし何らかの理由で自分では対処できない時、無価値感が大きな人は過度な一体性を求めて相手にどんどん浸食していく。
「葬式帰り」を読むとわかるが、章雄の陽介に対する(特に性的な)要求はどんどんエスカレートしていく。最後にはレイプして嘔吐させている。

 章雄はこれだけのことをしても陽介に謝らない。
 
このあと、姉の明をレイプしようとするが、拒否されたあとも明に謝っていない。
 これは何故かというと、無価値感は被害者意識から生じているため、何をしても自分が悪いと感じないからだ。自分の価値を認めず不当に扱う世界(他者)が悪いと考えている。
 この「他者が悪い」という感覚と罪悪感「自分が悪い」という感覚はワンセットになっている。
 だから無価値感が高じて自分の非を一切認めない人間がいる場合、周りにいる誰かが「悪」を引き受けなければならない。
 そのため、具合が悪いのにレイプされ嘔吐までした陽介が「ごめんって、全部ぼくが悪いって謝っちゃえばよかった」(自分のほうが悪い)と思う。
 
罪悪感を引き受けやすい人間は、この感覚を悪用されてコントロールされてしまうことがある。「相手が自分を利用しようとしている」「自分のほうがひどいことをされている」とわかっていても抗えない。
 自分が章雄と陽介の関係に強い嫌悪を覚えるのはそのためだ。

「葬式帰り」が凄いなと思うのは、この構図に自覚的であり批判的な視点が入っているところだ。
 結末近くに陽介と再会した明が、「陽介くん(略)やっぱりあの時と同じだね。章雄のこと……っていうか、自分のことしか考えていないの」と言っている。
 このシーンでは、陽介が無価値感を感じる側(明に同化を求める側)であり、明が罪悪感を引き受ける側になっているため、当たり前のように章雄のことばかり話す(同化を求めてくる)陽介の言動を明が批判している。
 今もなお陽介が章雄と同化して生きているため、明の言及は章雄のことも含んでいる。

 なぜ具合の悪い相手をレイプして嘔吐までさせて謝らないのか、自分が不安になった時だけ相手に近寄りレイプしようとして謝らないのかと言えば、自分のことしか考えていないからだ。
 正確に言えば自他の区別がつかないので、「自分がしたいと思うことを相手がしたくないと思うことがあると想像がつかない」のだ。

「丞相はなにもお判りになっていない。その頭のなかはご自分のことでいっぱい。それがしのことも、ほかの誰のことも、お考えになろうとしない。いつも……いつでも、ご自分の気がすめば満足なのだ。この世に、ご自分にかかわりがないことなど起こらぬと思っておいでなのだ。……反吐が出る。もう飽き飽きだ!」

(引用元:「私説三国志 天の華・地の風7」 江森備 復刊ドットコム/太字は引用者)

「天の華・地の風」の孔明も魏延にこう言ってキレられていたが、無価値感が高じている人間はこういうものなのだと思う。

「なぜ、そこまで自他の区別がつかないか」と言えば、章雄と孔明の場合は、幼いころに性的虐待を受けたことが大きい。
「自分」が確立する前に他者に無理やり侵入されたために、「自分と他人が入り混じっている状態」が「自分」になってしまっている。
 章雄にとって性行為は同化であり、他者と同化した自分が自分である。
 しかし陽介が吐いたために、同化が出来なかった。(陽介が他者になってしまった)そのため、明に同化を求めた。(レイプしようとした)
 明に拒絶されたあとは、「また二人で暮らそうよ」と父親に同化を求めている。

 確かに章雄個人は凄く気の毒だ。父親は許せない。(父親は「お前は頭がおかしい」「全部台無しにした」とすべての悪を被害者である章雄に押し付けている。この構図には怒りを覚える)
 だがそれでも他人を傷つけていいわけではない。
 章雄の行為は陽介や明の尊厳を傷つけている。
 
自分が父親にされたことを、二人にやっているのだ。

 章雄のように尊厳を傷つけられ、存在不安を抱えさせられている人間は被害者にもなりやすい。
 いま問題になっている、最初から風俗で働かせることを目的として女性に借金を背負わせる手法は、章雄が抱えているような「他の存在に密着することで、自分の存在を確かなものにして欲しい」という気持ちを付けこむ方法だと思う。
 そういう悪質な手法を共有しているホストも、店から売掛を背負わされているので構造的な問題なのだろう。こういう風に「弱い人間は食い物にして構わない」という発想が、罪悪感を抱えやすい人間が行き着く極致である。
 ルール(道徳)を破壊することで、強者(悪・加害者)で居続けようとする。

 正直なことを言えば、強要や犯罪以外の人間関係は、大人同士であれば本人に任せるしかないのではと思っている。
 自分から見れば陽介は章雄の被害者だが、陽介は思い出の中の章雄と生きることを選んだのだからそれは個人の自由で他人がとやかく言うことではない。
 ただ「なぜ、自分の生活を壊すほど金銭を費やし、相手にのめり込んでしまうのか」ということを社会全体で問題として扱っていくなら、自分が被害者にも加害者にもならないために、そのメカニズムがどうなっているかを各々が考えて、共有したほうが問題を未然に防げるのでは、と思う。

◆余談
 作品の外の話なので完全な想像だが、章雄の父親も同じことを誰かにされたのかもしれない。
 無価値感も罪悪感も大抵がドミノ倒し構造になっており、関係性の集積地になった人間が「炭鉱のカナリヤ」のように問題を目に見える形で表すことが多い。
 その場合、その集積地帯になっている人間は、ある角度から見れば被害者なのに他の人間から見ると「手に負えない化け物」になってしまう。
 実際の事件を扱ったものでは「心臓を貫かれて」や「冷血」が有名だし、創作では「ゴールデンカムイ」の尾形がこのパターンである。
 下手に近づくと自分が犠牲者になるので個人では手に負えないので、どうすればいいかと言われると難しいけれど。

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