見出し画像

康本雅子インタビュー【vol.1】――コンテンポラリーダンスとは、私はこのように踊るしかない、という踊り――

2023年2月、振付家・ダンサーの康本雅子さんをフェニーチェ堺に招き、代表作『子ら子ら』上演と公募ワークショップを開催します。康本さんは、コンテンポラリーダンスの世界で出演のみならず振付や演出を手掛け、近年はダンスによる性教育ワークショップも実施しています。今回は、康本作品やワークショップを取り上げながら、コンテンポラリーダンスの楽しみ方、そして康本さんにとって「ダンスとは何か」「踊るとはどういうことか」について伺いました。記事はvol.1とvol.2の二回に分けてお送りします。(この記事は2022年9月22日に堺市文化振興財団ホームページ上で掲載されました)

――今回は、これまで実施された康本さんの作品・ワークショップについてお聞きしながら、来年2月に予定する公演・ワークショップの見どころ、楽しみ方が伝わるインタビューにしたいと思っています。実は、このたび実施予定の公演は、これまでコンテンポラリーダンスのワークショップをいくつか実施してきたフェニーチェ堺で、初めて実施する公演になります。ですので、コンテンポラリーダンスを鑑賞するのが初めてだという市民の方に向けて、初めに「コンテンポラリーダンスの観方・楽しみ方」についてお伺いしたいと思います。

康本です。よろしくお願いします。コンテンポラリーダンスについてはやはり、「何をやっているか分からない」とか「意味が分からない」などとよく言われます。そして「分からない」と思った瞬間に、イコール「楽しめない」となってしまう。分からないことと楽しめるかどうかって、本当はまた別の問題のはずなのにそうなってしまうのは、とてももったいないことだと思っています。

例えばポップス音楽の場合、洋楽で言葉を聞き取ることができなくても、リズムやメロディだけで楽しめるという人はいると思います。そこは、意味を分かるか分からないかではない、感覚的な楽しみを味わっているからだと思います。それと比べたときに、コンテンポラリーダンスの公演には1時間くらいのものが普通にあります。それくらいの長さになってしまうと、人間というものは、「この登場人物はどういう人だろう」「この二人はどういう関係なのだろう」「今の動きはどういうシーンを表現しているのだろうか」のように、全体の中で意味づけをしたくなってしまいます。でも、残念ながらそういう風に鑑賞しても、コンテンポラリーダンスの公演では、何も答えが出ないことも多い。なので、どうしてもそこで「意味が分からない」となった途端に、もう「?」で頭がいっぱいになって楽しめなくなってしまいます。

「意味」はないけれども、「必然性」はある

――コンテンポラリーダンスの公演では、意味を読み取ろうとしても何も答えが出ないことが多い、というのはどういうことでしょうか。

これはあくまで私の場合なのですが、ダンスでの私の動きには、特に論理的な意味はないんです。なので、「この動きの意味は何か」とか聞かれたとしても、それは私にも分からないことなのです。ですので、そこはあまり解明しようとせずに、私が踊る身体を丸ごと受け止めてほしいなと思っています。私の場合、「余白」というか、お客さんがダンスを観ながら全然違うことをふと連想するような、そういうことができる部分も込みで作っているところがあります。

別の言い方をすれば、私は物語の「筋」としての整合性を考えていません。こういうシーンの後はこういうシーンがいいだろう、みたいなことは何となく考えますが、それを私はかなり感覚的に作っています。こういう感じなので、「筋」や「登場人物同士の関係」なんてものを考えようとしなくても、そもそもいいのが私のダンスなのです。そうじゃなくて、感じたことをそのまま楽しんでもらいたい。なので、「理解できないといけない」と思わずに、本当に気楽に観てほしいんです。

少し話がそれますが、例えば私は、ミュージシャンが演奏している様子の中に、「あ!今の動き、ダンスみたい!」というのを見つけるのがとても好きです。ミュージシャンって、ある音を出すために、ある音楽を演奏するために、そういう動きじゃないといけない、というような動きしかしない。リズムをとる時の首の動きとか、足踏みとかも含めて、ミュージシャンにはきっと無駄な動きはないと思うんです。だって、その楽器を鳴らすための動きだから、身体の動きがそうあるべき形になっているわけじゃないですか。私はそういう、もうこの人はこう動くしかないだろうっていう動きを見るのがすごく好きなんです。

それと比べたときに、ダンスって、言ってしまえば全て必要のない動きなのではと思っています。つまり、ダンスとは「必要ない動きで成り立っている」。だって、別にそれしなくたっていいというか、ミュージシャンのように、目の前の楽器を鳴らすという誰が見ても明らかな理由がない中で作られている動きだからです。書道家のパフォーマンスにしても、「あんなに大きい筆を動かすから、当然こう身体は動くよね」とかいうような必然性が、書道には全てある。けれども、ダンスって必然性ゼロなんです、言ってみれば。手ぶらでその動きをしたとしても、それが何につながるかというのはないんです。どんな動きしようが、別にどこにも行き着かない。だから、非常に見づらいんだと思うんです。「どう見ていいか分からない」という人の気持ちは、私も分かる気がします。

だからこそ、私にとっていいなと思うダンスは、仮にミュージシャンのように目の前に楽器がなくとも、「この人は今、こう動くしかなかったな」というのが観る人に伝わってくるような動きをするダンスです。「もうここではこの動きしかないよね」という動きを、音楽を使うにしろ、使わないにしろ、有無をいわせず観客にそう思わせるような動きが出せたら、観た人も多分、仮に「筋」や「登場人物同士の関係」なんかの意味が分からなくても――もっとも私の場合、そもそも「意味」はないのですが――、なんだか納得感を得られるというか、腑に落ちるんじゃないかと思うんです。まだコンテンポラリーダンスをあまり観たことのない方には、是非そういうダンスに出会ってほしい。

――言ってみれば、康本さんによるコンテンポラリーダンスとは、「意味」はないけれども、「必然性」はある、ということでしょうか。その動きをしている最中、康本さんは一体何を考えているんでしょうか。「意味のない動き」をしているときの頭の中が気になります。

うーん。何も考えてはいないですね。例えば、陶芸家がろくろを回して器を作りますよね。そのろくろを回しているときに、陶芸家は何かを考えてはいないと思うんですよ。もちろん作業開始前には、デザインとか形とか、考えていると思うんですけれども、回し始めて手を動かしているときって、土への手触りというか、感触だけで手を動かしていると思うんですよ。頭で考えて「こうしてやろう」とか「こういう形にしてやろう」とかではないと思うんですけど、私のダンスでの動きも、そういうものに近いのかなと思います。

ただ私の場合、振付なしには、絶対そんな風に動けないんです。私は即興の達人ではないので、あらかじめ振付はかっちりと決めるんです。振付を寝ていても踊れるぐらいになると、あとは踊るときに身体が、頭では何も考えなくても、感覚的にいい動きができるようになるんです。つまり私にとっては、自分の意志や作意といったものが完全に抜けた状態までに持っていくことが、ダンスが成立する条件だと言えます。

――では、その振付を制作するときには、何か考えているんでしょうか。

振付のときは、例えば「この曲に対して、この音に対してどういう動きが一番しっくりくるのか」みたいなことを、何度も繰り返しながら探求しています。ただ、先ほどの「必然性」にこだわると、振付という行為が、思うよりも難しいことが分かります。というのは、「私の身体だと、ここでは絶対にこの動きしかないよね」という感覚も、例えば違うダンサーが踊るときには、それが全然通用しないんですよ。だって違う身体だし、バックグラウンドも人それぞれだから。だから、自分で自分を振り付けるならまだしも、他人に振り付けるのは実はとても難しい。特に、自分の作品の中で他人に振り付けるのは本当に難しいんです。私が例えばある動きをしたとして、その動きから私の身体が何かしらの感覚を味わうということは、私だけのものじゃないですか。だから、同じ動きを他のダンサーがしてもその味わいまで振付で移すことができているのか分からない。

――これまでお話しいただいた内容は、ダンスを始めた頃からずっと考えてこられたことなんでしょうか。

根本的には、そんなに大きく変わってはいないと思います。ただ、こんなにはっきりと言語化はできていなかったと思います。なかなか人に説明する機会もなかったですし。

とにかく踊りたかった

――今回は、この記事で初めて康本さんに触れる読者のために、康本さんがダンスを始めた頃のこともお聞きできればと思います。ウェブで康本さんの活動を調べようとすると、アップテンポで踊るミュージックビデオや、音楽ユニットASA-CHANG&巡礼とのパフォーマンスが最初に目を引きました。これらは近年の公演における作風とはまた違うものを感じさせます。インタビューの続編(vol.2)では、近年の活動についてお伺いしますが、今回は初期の頃の活動や、そのころから続く康本さんの考え方についてお伺いしたいと思います。

私がダンスを始めたのは24歳で、他の多くのダンサーと比べると出発が遅かったのですが、そのころの私には、単純に、踊りたくても踊る場所がありませんでした。スタジオも少なかったし、グループを組む仲間もいなかった。そんな中で、自分が踊りたいように踊るにはどうしたらいいのかな、ということを考えていたのが私の若い頃でした。イベントで自ら出演料を払って踊ることもありました。今もそうなのですが、その頃の私は、とにかく踊りたい欲が強かった。今では振付や演出もしますが、私は何よりダンサーとして出発しました。

しばらくして、バックダンサーの仕事をするようになりました。サザンオールスターズやケツメイシの後ろで踊っていました。サザンの演出ではバックダンサーのソロシーンがあり、そういう機会には踊りを自分で作ることもありました。自分の踊りを自分で作るので、ごく自然にできました。そうこうしているうちに、もうちょっと自由に踊れる機会がほしいなと思って、自分でも作品を作るようになっていきました。けれども、その時には一人で一つの公演を開催できるほどの力量もありませんでしたし、そこまで「自分の世界」を出したいというようなこともありませんでした。当時は、とにかくただ踊りたかったのです。

――そのように、徐々に自分で作品を作れるようになったきっかけはあるのでしょうか。

運が良かったのは、2000年代の初め頃、私がダンスを始めてから少し経ったくらいの時期に、「コンテンポラリーダンス」という言葉が世の中で広まっていったことです。当時はいろんな雑誌でコンテンポラリーダンスが取り上げられていました。黒田育世さん(1976~)とか、KATHY(パフォーマンスグループ/2002~)とか、他にもたくさん。あの頃は、とにかくいろんな人たちがわーっと出てきて、世の中が「なんだか新しいものが出てきたね」っていう雰囲気で私たちを見てくれていた時代でした。

振付に関しては、演出家・俳優の松尾スズキさん(1962~)が手掛ける舞台で振付・出演ができたことが、自分の中では転機だったと思います。最初はアンサンブル[=バックダンスの一人として出演すること]だったのですが、コンテンポラリーダンスに興味を持った松尾さんが、「振付をしてみないか」と声をかけてくれたんです。それまで、松尾さんの「大人計画」どころか演劇も全く観たことがなかったのですが、それから舞台での振付や演出というものを考えるようになりました。

コンテンポラリーダンスとは「その人の思想」

――その当時、世の中での「コンテンポラリーダンス」って、どんなイメージだったのでしょうか。

よく言われていたのは、「自由な」「型がない」「振り付けがない」ダンス、みたいな表現でした。それは、コンテンポラリーダンスの「見た目」から来ている言い方だと思います。単純に見たことない動きとか、ちょっと変な動き、おかしい動きとか、そういう動きの「見た目」だけにフォーカスされてコンテンポラリーダンスが語られているなという感じがあります。当時の私は、「本当はそうじゃないんだけどな…」と、ずっと思いながら踊っていました。広告の仕事で「コンテンポラリーダンスがほしい」と言われて踊りに行くと、「ちょっと変わった動きをください」とか言われるわけですよ。変わった動きって何やねん!って思いながら仕事をしていました。

だって「コンテンポラリー」という言葉の意味からして、常に更新され続ける「現在」なのに、そんな風に「ちょっと変てこなダンス」というジャンルになって止まってしまったら、それはもう「コンテンポラリー」じゃない。ただまあ、そんなブームに乗って私たちの踊りが人に知られていったこと自体は、よかったことだと思います。まずは一般の人に知られること。私たちダンサーからすればずれた理解だけれども、聞いたことがある・観たことがあるという人が増えるのはいいことです。

私は、コンテンポラリーダンスとは「その人の思想」だと思っています。ダンサーや振付家にとって、その人が何をダンスと思っているのか、身体をどういう風に捉えているのかが、踊りを通して立ち現れてくるのが「コンテンポラリーダンス」なのだと思います。なので、コンテンポラリーダンスとは、バレエでもヒップホップでもジャズでもない、その他の変わった動きをするダンスというような「ジャンル」や「スタイル」のことではないと強調したい。観る人たちにはそんな風にコンテンポラリーダンスの舞台を捉え直してもらえると、私としてはとても嬉しいです。

――踊りの型やスタイルの話ではないからこそ、動きに論理的な意味を読み取ろうとするよりも、観る人がそれぞれに何を受け取るかが大切になってくるということですね。

例えば私は、舞台でダンスを観ていて、ある瞬間なぜか、ふわっと、舞台とは全然関係のないことを想像するというか、妄想するというか、自分の無意識な感覚や想像力がぱーっと広がることがあります。なので、友達と舞台を見に行った時に、友達から「あそこ、よかったよね」と言われても、全然覚えていないということも多かったりします。でも、それはそれでいいと思うんです。なんというか、全部を一生懸命に観て、分かろうとして、ダンサーの一挙一動を追いかけることが必ずしも鑑賞したことではないと、私は思っています。そうした想像の世界は、舞台を見ていたからこそ自分の中に広がったものなので、ダンスを観ることだけでなく、想像、余分な妄想も含めて、全部が「鑑賞体験」なんです。反対に、ただ筋書きを追いかけたいなら、わざわざ劇場に来なくても、台本や脚本を読めばいい。そうではなくて劇場で舞台公演を観ることの良さって、こうした楽しみがあることではないでしょうか。

特にダンスって、言葉ではない身体表現である分、そのように想像したり妄想したりというのは、観客の側に相当託されていると言っていい。そして、「つまんないな」と観客が思って観ているときには、絶対にこの想像・妄想は起きないんです。なので、優れた演出家がすごいところは、演技によってここで起きていることだけじゃないことを「見せている」ことです。そう考えると、私はそんな風に観客に「託す」ような演技・演出は、まだまだだなと思っています。とにかく観客には、ただ単純に踊りを観るというだけではなく、一緒にその時間を体験してもらえるように、舞台を作っていきたいですね。

Vo.2に続く

2022年7月3日 フェニーチェ堺文化交流室にて
インタビュー・テクスト:常盤成紀
相川幸子

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?