知らないことへの反応

自分的にいいこと知ったなーと思ったことを書いていくシリーズをはじめてみたくなりました。その第一弾。

細谷功さんの記事を読んで思ったこと。

↑この記事からの引用になりますが、

(1)「 知っている」と知っていること

言語で言えば、個々の単語の意味であったり、学生時代に一生懸命に暗記した歴史上の出来事や世界地理、元素記号等

(2)「知らない」と知っていること

自分は専門以外のことはよく知らないとか、海外のことはよくわからないといった具合です。このような知らないことを調べるために、私たちはインターネットで検索をしたり、よく知っていそうな人に聞いたりといった行動をとります。したがって、このように「知識を得る」というのは、「二番目の領域」を「一番目の領域」に変えていくことです。

(3)「知らないこと」すらしらないこと

「無知の知」の実践とは、自分は知らないことすら知らないことや、気づいていないことすら気づいていない、そのような膨大な領域があるということを意識しておくことなのです。

からの、

考えるというのは「三番目の領域」を「二番目の領域」に変えていくことをも意味します。人は、ついついここでいう三番目の領域を忘れがちです。するとどうなるかと言えば、自分が全く想定していないものや理解できないことを経験したときに、それを否定にかかります。


例えば私はここ数ヶ月の間に「ティール組織」について知りました。そんな組織論が存在しており、成立している例があるということを「知った」わけですが、たいした理解もしていないのに「そんなのうまく行かないんじゃない?」と「反射的に」否定にかかるところから始まる、みたいな。

「知らないものは否定する」に関して、もう一つアンテナにひっかかった記事を。

(私は西野さんの考え方が好きで、実はオンラインサロンのメンバーでもあります)

世の中には「面白そうなモノに飛びつく人」と「『面白い』という結果がでたモノに飛びつく人」がいて、「『面白い』という結果がでたモノに飛びつく人」は、『面白い』が作られるまでの間は否定し続ける

という一文があって、上の細谷さんの記事と合わせると 人は自分が知ってるものしか肯定しないし、実際は自分が判断してるんじゃなくて「周囲に同調してる」だけかもしれない、って思ったです。

例えば上記のティール組織の話を知ったときに私の状態って「理由があって否定する」のではなく「(よく知らないものを)否定したいという感覚が先で、後からいくらでも否定に値する理由づけをする」みたいな状態。良くないよね。

私が得たことの2点としては、

1) 自分には「知らないことすら知らない」領域があることを認識することで、他人から突拍子もない情報をもらったときに、それを正しく理解しようとする、という行動が取れるようになりたい。知らないという理由だけで否定しない。

2) 西野さんの記事(私の引用した部分の続きですが)からは「知らないものを否定するのが人間だから、思いに同調している人(オンラインサロンのメンバーなど)だけで形を作ってしまい、周囲を納得させる結果を出してしまう」という動き方って有効な手段だよな。「先に許可を得てから始める」じゃ成り立たないよな、と。

(そして話はループして、2のような物事の進め方が有効な手段であるという認識がされてきているということを「知らない」人にとっては否定の対象にもなり得る)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?