ミリタリーSF略史

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 2011年、早川書房の『SFマガジン』に書いたもの。
 ちなみに、最近のミリタリーSFの中で私の個人的なお勧めは、21世紀版『宇宙の戦士』っぽいロバート・ブートナーの『孤児たちの軍隊』シリーズです。

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 ミリタリーSFについて語ろうとするには、当然まずはそれがどんなサブジャンルなのか、定義したほうが話を進めやすいだろう。
 ところが、ピーター・ニコルズとジョン・クルートのThe Encyclopedia of Science Fiction第二版(1995)では、「ミリタリーSF」という単語は本文中では使われているが、一つの項目として書き起こされてはいない。
 代わりに「戦争」という項目の中で、SFがどのように戦争を扱ってきたかが綴られている。
 それによれば、SF的な戦争小説の歴史は古い。なぜなら、戦争は人類の歴史が始まって以来、ほとんど絶えることなくどこかで起こっていることであり、次に起こるであろう戦争を予測すること、そしてそれに投入されるであろう新兵器を予想することは、人々にとって大きな関心の的となってきたからだ。
 特に産業革命以降、次々に生まれる新技術が新しい兵器を生み、戦争の形態を変えていくことが予感され、それが架空の戦争を扱った小説を生んでいった。
 かの侵略SFの始祖とも言える『宇宙戦争』(1898)を書いたH・G・ウェルズも、飛行機による空中戦を予見した『空の戦争』(1908) や、核兵器による大規模破壊を予言した『解放された世界』(1914) 等、様々な作品で「未来の戦争」を扱っている。
 こうした事情は日本においても同じで、明治から昭和初期にかけて、押川春浪、海野十三ら多くの作家が、冒険小説色の濃い空想的な戦争小説を発表していた。
 これらの架空戦争小説は、「軍事シミュレーション小説」もしくは「ハイテクスリラー小説」という形で、現代にも受け継がれることとなった。
 特に、七〇年代後半から八〇年代にかけて、米ソ冷戦が最後の緊張関係を迎えた時期に呼応して、ジョン・ハケットの『第三次世界大戦』(1979)やトム・クランシーの『レッド・オクトーバーを追え!』(1984)といった小説が大ヒットし、一気にサブジャンルとして成長することになったのだった。
 その後、九〇年代に入り、ソ連崩壊によって冷戦構造が崩れてからは、今度は「未来の戦争」のシミュレーションではなく、「過去の戦争」をシミュレーションし直す、いわゆる「架空戦記」もしくは「仮想戦記」と呼ばれる小説がもてはやされるようになる。
 アメリカにおいては、ハリー・タートルダヴの一連の作品が有名で、まさに一人でありとあらゆる「歴史のif」に取り組んでいるかの感があるが、日本ではまさに百花繚乱、数多くの作家が架空戦記を書き、大きなブームを巻き起こしたのは、記憶に新しい。

 とまあ、いきなり長々と「架空の戦争を扱った小説」の話をずいぶんと進めてしまったが、実は筆者はこれらの小説を「狭義」のミリタリーSFの範疇には入れようと思っていない。
 では、筆者が言うところの「ミリタリーSF」とは何なのか。ここまで挙げてきたような作品以外にも、たとえばスペース・オペラの代表的古典である《レンズマン》などでも、敵との大規模な「戦争」が描かれている。そういった「戦争を描いたSF」と「ミリタリーSF」はどこが違うのだろう。筆者は以下の点が重要な条件だと考えている。
(1)主人公が軍人である。
(2)戦争が、舞台設定であると同時に、物語のテーマでもある。
(3)戦闘の詳細な描写があり、戦術や戦略に関する専門的かつ技術的な言及がある。
(4)舞台は未来かつ地球外のいずこかである。
 特に(2)の「戦争それ自体がテーマである」というのがミリタリーSFの最大の特徴だろう。つまりミリタリーSFとは、戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、戦争という行為そのものを題材としてとらえ、作者自身の戦争観をさらけ出している作品のことであり、だからこそそこに強烈なヒロイズムが生まれるのである。
 そして、この(1)~(3)の要件は、先に述べた「軍事シミュレーション小説」や「架空戦記小説」にも共通するものだが、(4)こそがそれらとミリタリーSFとを決定的に切り分けている要素だ。つまり、ミリタリーSFとは、未来の宇宙を舞台にした「未来SF」であり「宇宙SF」であることが、大事な点なのだ。これによって、ミリタリーSFは、我々の社会に存在する現実の対立要素(国家、宗教、イデオロギー等々)のしがらみから解放される。それによって現実を相対化し、より純粋な冒険活劇として戦争を描くのも、よりテーマ性の高い寓話として戦争を描くのも、作者の自由に委ねられる。この自由度の高さこそが、SFの真骨頂であり、ミリタリーSFの一つの魅力だと、筆者は考える。
 この、宇宙を舞台にした冒険活劇という側面こそ、ミリタリーSFと、往年のサブジャンル、スペース・オペラとを結ぶ要素でもある、というわけだ。

 さてここで、またも少し遠回りになるが、今度は「スペース・オペラ」について、復習しておこう。
 最初に「スペース・オペラ」という言葉が使われたのは一九四一年。使ったのはSF作家のウィルスン・タッカーだという。
 元々「~~オペラ」という言い方は、テレビが普及する前のラジオ全盛期のアメリカで、お昼時に放送されていた連続モノのメロドラマの多くが石鹸粉の会社によって提供されていたことから、安手のメロドラマを「ソープ(石鹸)・オペラ」とバカにして呼ぶことに始まった。今でもアメリカでは、お昼時にテレビで放送される連続ドラマ(日本で言うところの「昼メロ」である)をソープ・オペラと呼んでいる。
 そこから派生して、やはり定型にとらわれすぎた単調な勧善懲悪型の西部劇を「ホース(馬)・オペラ」と呼ぶようになった。タッカーはそれをもじり、SF的なガジェットで味つけされてはいるものの、内容は勧善懲悪型の冒険活劇を「スペース・オペラ」と呼んでバカにしてみせたわけだ。
 ただし、実際にこの手のSF風冒険活劇の最盛期は二〇~三〇年代であり、タッカーがスペース・オペラと名づけた四一年にはすでに過去のモノとなりつつあった。つまり、スペース・オペラという言葉は、侮蔑的な意味だけではなく、生まれたときからすでに過去を懐かしむノスタルジックな響きも持ち合わせていたのだ。
 そう、スペース・オペラの時代は三〇年代末で終わりを告げ、名編集者ジョン・キャンベル・ジュニアが主導する「科学技術小説」の時代がやってきたのである。
 単純明快な冒険活劇は、もっと複雑で意外性に満ちた物語に道を譲ることとなった。四〇年代を代表する宇宙を舞台にした大長編がアシモフの《ファウンデーション》シリーズの初期三部作だと言えば、その違いが読者にもわかっていただけるだろう。
 もちろん、スペース・オペラのような活劇が完全に姿を消したわけではなかった。たとえばジャック・ヴァンス(『大いなる惑星』(1957)他)やポール・アンダースン(『鳥人大戦争』(1958)他)などのエキゾチックな冒険SFや、サミュエル・ディレーニイ(『ノヴァ』(1968)他)やバリントン・ベイリー(『カエアンの聖衣』(1976))のような絢爛豪華なワイドスクリーンバロックなどがあるし、ラリー・ニーヴンの《ノウンスペース》シリーズのような宇宙SFが「ニュー・スペース・オペラ」と呼ばれたりもした。
 さらには、一九九〇年代後半以降、ポール・J・マコーリイ、ケン・マクラウド、アレステア・レナルズ、チャールズ・ストロスといったイギリス作家たちが、大スケールの宇宙SFを次々に発表、再び「ニュー・スペース・オペラ」の時代が到来したことは、海外SFファンの読者諸氏にはお馴染みの話題だろう。
 だが、これらの作品には、全盛期のスペース・オペラが持つ素朴で強烈なヒロイズムが決定的なまでに欠けていたという事実は否定できない。今や、一匹狼のヒーローが宇宙を股にかけて悪と戦う、というようなストーリーは、すっかり過去のものとなってしまっているのだ。
 とはいえ、そういった宇宙活劇のヒロイズムやロマンティシズムは死に絶えてしまったわけではない。いわゆる「ミリタリーSF」こそ、それを今に色濃く伝える古式ゆかしい「スペース・オペラ」の後継者なのである。
(ちなみに、日本におけるミリタリーSFの系譜は、田中芳樹の『銀河英雄伝説』(1982~89)など、ごく少数の例があるだけである。軍事シミュレーションや架空戦記と比べて、なぜそうなのかは大いに興味のある疑問だが、ここでは字数の制限もあり、割愛したい。)

 やれやれ、やっと本題に入ることができる。
 こうしたミリタリーSFの走りとも言えるのが、ロバート・ハインラインの『宇宙の戦士』(1959)だ。意思の疎通が不可能なクモに似た形態の異星種族に対して徹底的なせん滅戦を挑む地球軍の姿を、最前線の一兵士の視点から描いたこの作品は、その後のSF映画やアニメに多大な影響を及ぼした〈パワードスーツ〉に代表される未来兵器の描写の確かさもさることながら、あらゆる手段を講じ断固勝利しようとする軍隊特有の思考方法を徹底的に書き込んでいる点において、まさにハインラインの戦争観をそのままに表していると言ってよい。そこがまたSFファンのあいだで本書の評価を大きく2分することになった要因でもあろう。
 さて、『宇宙の戦士』発表の翌年の一九六〇年、ゴードン・R・ディクスンが、自身の代表作となる一大叙事詩《チャイルド・サイクル》シリーズの第一作目を発表した。このシリーズは完成時には過去・現代・未来のそれぞれの時点を舞台にした大長編となり、人類の進化していく姿を描き出すことになるとされていた(ディクスンの死によって未完となり、結局過去編と現代編は書かれなかった)。このシリーズでは、傭兵を生業とする〈ドルセイ〉と呼ばれる人々の活躍を描くことで、人間の持つヒロイズムを尊ぶ側面を拡大して映し出している。
 ハインラインとディクスンの作品が、それまでの戦争を扱ったSFと格段に違ったところは、未来の宇宙を舞台にしているにもかかわらず陸戦を主体として描き、一人の英雄の活躍ではなく集団としての軍隊の戦い方を追究したところにある。そのリアルっぽい迫力が、元々の宇宙活劇、すなわちスペース・オペラとはひと味違う新味となって、多くの読者を獲得したわけだ。

 しかし、こうしたミリタリーSFに対する激しい批判もまた生まれてきた。
 ハリイ・ハリスンが六五年に発表した『宇宙兵ブルース』は、辺境の惑星に住むのんびりした青年ジムが、軍隊に入り冷酷非常な(つまり優秀な)軍人になるまでを、全編ブラックジョークを交えて描き、軍隊という組織の非人間性とヒロイズムの愚かさを痛烈に皮肉った。それは同時に『宇宙の戦士』に対する辛辣な意見ともとれた。
 さらに七四年、ヴェトナムでの従軍経験を経たジョー・ホールドマンは『終りなき戦い』を発表、『宇宙の戦士』と類似した状況をさらにリアルに、大局を知らされず前線に投入される一兵士の悲哀をじっくりと書き込むと共に、戦争から帰ってみると祖国の状況が一変していたという、当時のベトナム帰還兵たちが直面した状況を、ウラシマ効果というSF的な設定を用い、拡大化して描き出してみせた。

 ところが、八〇年代に入って、前述のように米ソの緊張が再び高まり、軍事シミュレーション小説が流行りだした頃、SF小説の世界においても新たなミリタリーSFの時代が到来した。その新たな書き手たちの代表格がジェリー・パーネルとデイヴィッド・ドレイクである。
 ラリー・ニーヴンとの合作による本格SFで有名なジェリー・パーネルだが、『デイヴィッド王の宇宙船』(1981)や、『宇宙の傭兵たち』(1977)に始まるファルケンバーグ大佐率いる傭兵部隊の活躍を描いたシリーズ、『地球から来た傭兵たち』(1979)に始まるシリーズなど、その著作にはミリタリーSF系の作品が数多い。
 パーネルの作品に多く見られる特徴は、彼が政治的対立を解決する最終手段として、愚かだとは判っていながらも戦争行為が行われてしまうことを諦観していること、そして純粋に戦争における戦略や戦術の問題に強い興味を示していることにある。
 そういう意味では、作者の戦争観、歴史観、人間観が縦横に盛り込まれたディクスンの《チャイルド・サイクル》ものとは対極の作風だと言えなくもない。
 一方のデイヴィッド・ドレイクは、七九年に開始したHammer's Slammersシリーズで一躍人気作家となり、以後続々と宇宙を舞台にした傭兵たちの活躍を描いた小説を発表している。彼の作品の特徴として、軍人としてのプロフェッショナリズムと、個々の戦闘の描写を追究、主人公たちの行動のヒロイズムだけでなく、戦争の悲惨さをもしっかりと描写している点があげられる。
 これはまさに、『宇宙の戦士』と『終りなき戦い』の中庸を行くものであり、ある意味ミリタリーSFの王道を築いたと言ってもいいだろう。
 かくして、彼らの作品を筆頭に、一時は様々なシリーズもの(中にはラリー・ニーヴンの《ノウン・スペース》シリーズから派生したThe Man-Kzin Wars(1988~)などというシェアード・ワールドものまである)が乱立していたミリタリーSFだが、九〇年代に入り、再び新しい流れが生まれてきた。

 それが、八六年の『戦士志願』に始まるロイス・マクマスター・ビジョルドの《マイルズ・ヴォルコシガン》シリーズ。そして、それに続けとばかりに、九〇年代に入って登場し、矢継ぎ早に巻を重ねて、それぞれに人気を博したデイヴィッド・ウェーバーの《紅の勇者オナー・ハリントン》シリーズと、デイヴィッド・ファインタックの《銀河の荒鷲シーフォート》シリーズなどであった。
 これらのシリーズには、いくつかの共通点がある。特に、主人公の属する国家の体制がいずれも王政などの前近代的なものに逆行してしまっている点が新しい。従来のミリタリーSFならば、悪役を振られてしまっていたような国家の軍人が物語の中心にすえられているのである。これらのシリーズの主人公たちは。大なり小なりそうした自国の社会体制に悩まされながらも、祖国として愛するが故に守ろうとする。その姿は、純粋にアメリカ的正義を信じ、それを守ることの喜びを謳い上げたハインラインの『宇宙の戦士』から隔世の感がある。
 これは、正義の味方や一匹狼のアウトローが活躍する全盛期のスペース・オペラとも、八〇年代の民主主義バンザイ式のミリタリーSFとも明らかに違うものだ。
 また、軍隊の制度や戦闘時の戦術など、あきらかに古き良きイギリス帝国海軍を描いた帆船小説へのオマージュがある点も共通している。スペース・オペラがホース・オペラ(西部劇)を宇宙に移したものだとすれば、これら九〇年代のミリタリーSFの神髄は、海戦主体の帆船小説を宇宙に持ってきたものだということかもしれない。
 九〇年代とは、これまた前述の通り、米ソ二大国による冷戦構造が崩れ去り、架空戦記が流行った時代でもある。
 この時期に、帆船小説の未来版を指向したミリタリーSFが登場したというのは、架空戦記の流行同様、ある種の懐古趣味が働いたことにその一因があると考えてもいいのかもしれない。

 冷戦終結によって全面核戦争の恐怖から解放されたのもつかの間、二十一世紀に入り、アメリカを取り巻く状況は一変する。
 二〇〇一年九月十一日、アメリカを襲った同時多発テロと、それに続く中東での戦争によって、アメリカはベトナム戦争以来の全面的な戦時下に突入したのだ。
 そしてそれに伴うかのように、ここに再び、デイヴィッド・ドレイクが書いてきたような陸戦を主体としたミリタリーSFが増えてきている。
 その急先鋒が、《ポスリーンウォー》シリーズのジョン・リンゴーや、《海軍士官クリス・ロングナイフ》シリーズのマイク・シェパードといった顔ぶれだ。
 彼らの特徴は軍務経験を持つということだ。現場の兵士ではなかったとはいえ、軍隊という組織内に身を置いていたことで、軍人のモノの考え方や軍隊の行動論理を理解していることが、作戦行動中の登場人物たちの言動にリアリティを与えている。まさに、デイヴィッド・ドレイクの後継者にふさわしい作家たちだと言えるだろう。
 九〇年代の主流だった宇宙艦隊ものもまだまだ健在だ。その筆頭が《彷徨える艦隊》シリーズのジャック・キャンベルだ。敵軍に包囲された不利な状況で、奇策を用いて麾下の艦隊を生還させようと奮闘する主人公の姿が、読者の圧倒的な支持を受けている。
 ちなみに、キャンベル(彼もまた軍務経験者である)とシェパードは、それぞれジョン・G・ヘムリイとマイク・モスコーという別名義で、九〇年代にデビューしていたのだが、筆名を変えて今のシリーズを始めたことで、一躍人気が出たのだった。
 デビュー済みといえば、《栄光の〈連邦〉宙兵隊》シリーズのタニア・ハフや、《若き女船長カイの挑戦》シリーズのエリザベス・ムーンなど、今まで異世界ファンタジーなどを書いていた中堅女流作家が参入してきたことも、最近の傾向だろう。
 実は、ハフもムーンも軍務経験があり、軍隊の内情に詳しいところは、先に述べた男性作家たちと変わらないのだが、(特にムーンは)SF冒険小説的な色合いが濃いところが、男性作家たちとひと味違うところだろうか。
 そんな中、異彩を放っているのが、《老人と宇宙》シリーズのジョン・スコルジーだ。
 まったく軍務経験のない作者の手によるこの作品は、軍人を主役として異星人との星間戦争を描いてはいるものの、そのアイデアやストーリー展開のユニークさは、限りなく「ニュー・スペース・オペラ」に近い。

 というわけで、今やアメリカではミリタリーSFが百花繚乱の活況を示している。いや、正確には、大盛況となっているパラノーマル・ロマンスものの脇で、なんとか勢いを保っているということではあるのだが、まあ、それはあまり言うまい。
 歌は世に連れ、世は歌に連れ。
 ここまで見てきたとおり、ミリタリーSFはその時々の軍事情勢を反映する形で傾向が変わってきた。この先、ミリタリーSFがどのような姿を見せることになるのか。それは、すなわち、我々の未来にどのような戦争が待ち受けているのかにかかっているのかもしれない。

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