小松左京の10冊

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2011年、『本の雑誌』のリレー連載「※※の10冊」の依頼が回ってきたときに書いたもの。当初は、大ファンである山田さんの著作で「山田正紀の10冊」でいきます、と担当編集の人に言っていたのだが、小松さんの訃報を見た瞬間、今はこれを書くしかない、と決心、一般書店はもちろん、図書館、古書店を巡って、小松さんの著作をほぼ全作読み直して書いた。というか、フィクションと違って、膨大なノンフィクションには未読のものが多く、それらを読んだおかげで、小松左京像が大きく変わり、まさに日本SF界の、というより、日本文壇の「知の巨人」だったんだなあ、ということを深く認識させられた。

○小松左京の10冊リスト
『日本アパッチ族』
『復活の日』
『果しなき流れの果に』
『日本沈没』
『結晶星団』(ハルキ文庫版)
『石』
『妄想ニッポン紀行』
『未来図の世界』
『地球を考える』
『SF魂』

 日本SF作家第一世代を、というより日本SFを代表する作家、小松左京といえば、SFに詳しくない人でも『日本沈没』の作者として今でも名前くらいは知っているはずだ。そして、SFファンの多くは、さらに『復活の日』、『果しなき流れの果に』、『さよならジュピター』などの傑作長篇を思い浮かべるだろう。
 だが、それら長篇群は執筆量からいけば、小松左京の著作のごく一部を占めているにすぎない。二〇〇六年に刊行された自伝的エッセイ『SF魂』の序文によれば「これまでに書いてきたものは、長篇が十七作、中・短篇が二六九作、ショートショートが一九九作。小説の単行本だけで六十二冊、このほかエッセイ・評論・ルポなどの単行本が六十八冊にのぼる」とある。つまり、分量だけで見れば、小松左京は短篇とノンフィクションの作家だと言えなくもないのだ。
 というわけで、今回、小松左京の十冊を選ぶにあたって筆者は、長篇小説のみならず、その短篇とノンフィクションにも注目、長篇四冊、短篇集二冊、ノンフィクション四冊をセレクトしてみた。
 まずは長篇から。
 記念すべき長篇第一作『日本アパッチ族』は、小松左京の奥底に潜む怒りと絶望が、黒い笑いとなって炸裂するドタバタ喜劇だ。大阪弁を多用した語り口の下卑た力強さ、連発されるナンセンスギャグ、徹底した反権威、反権力、文明批判の視点等々、初期短篇の多くにも表れている特徴が大いに発揮されている。そこには、敗戦後、焼け跡となった大阪の街で見聞きした作者の実体験が大いに反映されているという。笑いのオブラートで包んではいるものの、「人間」というものの愚かさに対して実に手厳しく、ラストにつけられた文書の、すべてを突き放した結末の苦さが忘れがたい傑作。未完の大作『虚無回廊』へと続く小松SFの歴史は、この怒りを作者が昇華していく過程なのかも知れない。
 細菌兵器による世界の破滅を描いた『復活の日』は、『日本アパッチ族』とはうって変わったシリアスで壮大な作風で、その後の小松SFの印象を決定づけた一作。多視点でくるくると舞台が移り変わり、世界各地の無数の人々の姿が点描されていく中、世界が静かに破滅の坂を転がり落ちていく迫力は、まさに「人類を描く」小松SFの真骨頂だろう。次々にすべてが悪い方にドミノ倒しを起こしていき、誰も事態の全貌をつかめないまま、全世界が崩壊していくのを、傍観している感覚の、なんと恐ろしいこと。 
 そして、ラストに訪れる小さな希望。それは、パンドラの箱の底には「希望」がまだ残っている、というくらいの小さな希望だ。小松左京本人を知る人たちは、彼は常に希望に満ちた楽観論者だったと語る。だが、その「楽観主義」というのは、つまりこの作品のラストのようなモノだったのではないだろうか。
 さて、『果しなき流れの果に』は、言わずと知れた、小松SFのもう一つの代表作。世間的には小松左京の代表作は『日本沈没』だが、SFファンの多くはやはり、この作品が一番だと言うのではないだろうか。時間と空間を超え、さらには平行宇宙の彼方まで縦横無尽に行き来して、人類の、そして宇宙の行く末を描きだそうとする、その壮大なスケール感は『日本アパッチ族』とも『復活の日』とも違う、目眩にも似た感覚を与えてくれる。
 たとえば、山田正紀の『チョウたちの時間』。もしくは、川又千秋の『幻詩狩り』。さらには、夢枕獏の『上弦の月を喰べる獅子』……。その後、連綿と連なる、鏡明言うところの「日本SF的」なる作品群の嚆矢こそ、この作品なのではないか。
 ただし、筆者は今回再読して、人がこの本に惹かれるのは、その壮大なSF性よりも、作品内に横溢するあふれかえらんばかりの感傷やロマンティシズム、そういうもののためなのではないのかという思いを強くした。なにせ、本作の一番外枠の物語は、半世紀にもわたる男女の淡い恋物語なのだから。
 すでに何度も書いているが、小松左京の代表作と言えば世間的には『日本沈没』だろう。日本列島が文字通り海中に没するという、そのセンセーショナルな題材と、それを支えるリアリティ溢れる筆致、当時としては最先端の科学知識に、豊かな想像力で生み出されたSF的な設定、そして、大破壊を描きつつ、なおも綴られる日本を愛し自然を慈しむ叙情性。今もって、いや、今だからこそ、その力を失わない傑作だ。
 次に短篇に移ろう。小松左京は、宇宙SFや時間SFといった本格SFはもちろん、ドタバタコメディやホラー、芸道ものまで、幅広いジャンルの短篇を量産している。そこで今回は、それらをテーマ別に編み直した再編短篇集の中から二冊を選んでみた。
『結晶星団』(同題の角川文庫版ではなく、ハルキ文庫版のほう)は、小松左京の宇宙SFを集めたもの。実は小松左京には宇宙もののは少なく、この本と中篇集『ゴルディアスの結び目』に、そのほとんどが収められている。特に本書は、「結晶星団」、「神への長い道」、さらには中篇集『氷の下の暗い顔』がまとめて入っていて、大変お得な一冊となっている。
 右記の短篇はいずれも、宇宙と人類の行く末を思索した、『果しなき流れの果に』にも通じる、小松左京の宇宙SFに共通する大テーマを扱った傑作だ。
 個人的には、もはや「人類の進化」とか「生命の意味」といった「いかにもSF」というか「哲学的な問いかけ」の部分には全く心惹かれないのだが、そうした問題を真摯に問い続ける登場人物たち(そして、作者である小松左京)の姿が、我々読者の胸を打つのだと、筆者は信じる。
 ちなみに、この大テーマは、最後の長篇大作『虚無回廊』において、もっとも大きなスケールで描かれようとしていた。この作品の未完を嘆く声も多いが、筆者はそれもまたふさわしい幕切れだったのではないかと思う。なぜなら、小松左京の宇宙SFが繰り返し問い続けてきた問題は、「答が容易には見つからない問い」であり、答を見つけることではなく、問い続けることこそが重要なのではないかと考えるからだ。
 一方の『石』は、小松左京の怪奇小説を集めたアンソロジー。イメージが秀逸な「夜が明けたら」、「空飛ぶ窓」、「海の森」、展開が絶妙な「保護鳥」や「ハイネックの女」、そして世評も高い「くだんのはは」など、いずれもハイレベルな怪奇幻想譚で、小松左京がSFのみならずホラーやファンタジイにも造詣が深く、その作風がバラエティに富んだものであったことが伺える。
 最後にノンフィクションを四冊。
『妄想ニッポン紀行』は、小松ノンフィクション最初期の二作品、『地図の思想』と『探検の思想』を一冊にまとめた紀行エッセイ集。
 本書と、それに続く『未来の思想』は、「思想三部作」とでも呼ぶべき重要な作品で、その中に小松SFの創作の原点となる思考法や問題意識がほぼ含まれている。まさに「生の」小松左京に触れることができるという意味でも、貴重なものだ。
「未来学」という切り口を説いてみせた『未来の思想』により心惹かれるSFファンは多いだろうが、ここは、小松左京がずっと持ち続けていた関西人特有の郷土愛、中央への反感と地方への違和感、日本人への愛と失望などを若い筆力で(しかも、物語仕立てにして)書き綴った本書の方を推したい。
 著者本人があとがきに書いてあるとおり、急速に変貌していった日本の社会の中で、ここに書かれた景色もまたあっというまに変わっていってしまったが、それでもなお、本作に盛り込まれている問題意識は、今なお色あせることなく我々日本人の前にある。
 右で『未来への思想』は外してしまったが、やはり小松SFの根幹をなす「未来学」への指向を書いたノンフィクションを、一冊は入れておかないとまずいだろうということで、『未来図の世界』を選んでみた。「不純な」通俗文学としてのSFを擁護して一歩も退かないところが感動的な「拝啓イワン・エフレーモフ様 -「社会主義的SF論」に対する反論-」、終戦直後、廃墟と化した大阪の町並みを体験し、その絶対的な虚無の世界にいかに衝撃を受けたかを綴った「廃墟の空間文明」、「文学の科学」をめざす試みとして、数学を駆使して文学を定量的に解析することを提案した「SFの積極的意義」、日本にとって大阪万博はどういう意義を持つのか、なぜ開催すべきなのかについて語った「万国博はもうはじまっている」等、まとまりには欠けているが、小松左京の未来への理想が詰まった好エッセイ集だ。
 小松左京には対談集も多い。ここではその中から、「地球の未来を考える」というテーマで当時第一線で活躍していた科学者・人文学者たちと話した『地球を考える』を選んでみた。本書がおもしろいのは、科学者4人(うち2人は生物系)だけでなく、哲学者2人、工学者1人、経済学者1人、政治学者1人、歴史学者2人と対話した後、文化人類学者である梅棹忠夫と話して締めるという構成になっていること。全体で見ると、理系よりも文系の人のほうが少し多いくらいの配分になっている。このバランス感覚というか、広い視野こそが小松左京の真骨頂だったのであろう。
 最後の『SF魂』は、自伝的エッセイ。小松左京の自伝は他にも『やぶれかぶれ青春記』、『威風堂々うかれ昭和史』、『小松左京自伝 -実存を求めて-』があり、さらには彼が手がけた2つの万博についての体験記『巨大プロジェクト動く』があるのだが、いずれも小松左京の生涯のある側面のみについて書かれていて、それぞれに一長一短があるのが悩ましい。
 その中でこの本は、コンパクトではありながらも、その生涯をほぼ網羅する形をとっており(実は『小松左京自伝』の伝記部分より長い)、入門書として最適だと考えた。
 小松左京という一代の知の巨人の活動は、文筆にとどまっていなかった。万博を始めとするイベントのプロデュースや映画の製作など実に幅広く、特に一九七〇年代前半、その言動は、ことSF界にとどまらず、日本の文化活動全体に大きな影響力を与えていた。そのことと、それが当時の日本に何をもたらしたのかを語ることは、小松左京の全貌を未来に伝えるために必要なことだと筆者は信じる。
 今後、第三者による本格的な評伝が書かれることを期待して筆を置きたい。

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