優しいリアリスト、川端裕人

【投げ銭システム:有料に設定されていますが、無料で最後まで読めます。最後まで読んで「気に入ったから投げ銭あげてもいいよ」と思ったら、購入してやってください】

 2006年、早川書房の『SFマガジン』に書いたもの。
 実は、私は川端さんとは遠い親戚(確か「はとこ=又従兄弟」くらいの親等)にあたるのですが、ある時(たぶん2004年頃?)、川端さんから突然ツイッターか何かで「実は、僕たち、親戚ではないかと思うんですが」と言われるまで、全然知らずにいたのでした(会ったのも、その後が初めて)。
 縁は異なもの、とでも言いましょうか。ずっとファンで、新刊が出るたびにレビューを書いてたりした相手が、まさか親戚だったとは。

 その後は、何年かに一回くらい、どこかで会ってお茶したりしているのですが、なんせ、世界中飛び回って取材している人なので、気がついたら地球のウラ側からfacebookに写真がアップされてたりして、なかなか会う機会もないのでありました。
 というか、遠いとはいえ、血はつながってるし、ほぼ同い年なのに、なんで向こうはあんなに若々しくてイケメンなのか?! しかも頭もいいし、文才もあるし。神様は不公平でござる。(^_^;)

--------------------------------

 川端裕人の作品は優しさに満ちている。
 それがフィクションであれノンフィクションであれ、川端裕人は常に冷静で、結論を急がない。だから、性急な人には彼の作品は物足りなく映るかもしれない。しかし、彼の態度は誠実さの裏返しであり、他者の意見に耳を傾ける度量の広さの表れである。そして、彼がそうした姿勢を貫けるのは、川端裕人がとても優しい人だからであり、彼の作品はそんな優しさに満ちあふれているのだ。

 川端裕人は、一九六四年、兵庫県に生まれ、千葉で育った。東京大学教養学部で科学史及び科学哲学を専攻し、卒業後日本テレビに入社、科学技術庁と気象庁の担当記者として、科学情報番組の製作に携わっていた。
 九五年『クジラを捕って、考えた』で、ネイチャー・ライティングを主とするノンフィクション作家としてデビューする。
 その後、九七年にテレビ局を退社。一年間、ニューヨークのコロンビア大学に研究員として在籍したのち、九八年、『夏のロケット』で第十五回サントリーミステリー大賞優秀作品賞を受賞、小説家としてもデビューをはたす。

 ノンフィクション作家としての川端裕人の持ち味は、対象である動物たちに対する深い愛情に満ちた優しい視点と、その愛情に流されてしまわない冷静な視点とが、見事に同居しているところだ。
『クジラを捕って、考えた』のクジラ、『フロリダマナティの優雅なくらし』のフロリダマナティ、『イルカとぼくらの微妙な関係』のイルカ、『オランウータンに森を返す日』のオランウータン、そして『ペンギン、日本人と出会う』、『ペンギン大好き!』、『サボテン島のペンギン会議』におけるペンギンと、川端は常に自分が興味を持った動物たちが自然の中でどう生きているのか、その目で見るために現地へと飛び込んでいく。その行動力たるや目を見張るものがあり(『クジラを捕って、考えた』では、捕鯨船に乗り込んで、半年間、南氷洋での調査捕鯨につきあっている!)、『フロリダマナティの優雅なくらし』や『オランウータンに森を返す日』、『ペンギン大好き!』、それに、世界中の変わった動物たちを紹介した『へんてこな動物』などでは、文章のみならず動物たちの写真まで自分で撮ってしまっている。そこには、動物たちに対する純粋な愛情があふれている。
 一方、これらの本の中で川端は、対象とする動物そのものと同じくらいの比重で、その動物と人間との関わり合いを扱っている。自分たちの仕事や生活を通して動物の生存を脅かしている人たち。動物の保護に奔走している人たち。そして、ただただ動物の愛らしさを観賞している人たち。それぞれの立場の人たちが、いかに動物と関わっているのか、川端は誰かを声高に批判したりすることなく、それぞれの主張や事情を取材し、人間と動物のより良い関係を模索しようとする。そこには、人間と自然とを対立するものとして捉えるのではなく、人間社会をも含めた地球全体の環境を一つのものとして見る姿勢がうかがえる。
 その集大成とも言えるのが、コロンビア大学在籍中にアメリカ中の動物園をまわって、動物を飼育するということを見つめた『動物園にできること』と、ニューヨークでの生活の中で自然と人間の関わりを問うた『緑のマンハッタン』だろう。
 特に『動物園にできること』は、出版当時の日本ではまだまだ知られていなかったイマージョンやエンリッチメントといった動物園展示の新しい手法を紹介、アメリカの動物園がいかに動物たちの自然のふるまいを再現しようと意欲的に勤めているかを肯定的に紹介してみせた希有な書籍であり、いまだにその新鮮な衝撃は失われていない(しかも、動物園の態度に反対する動物愛護団体の視点もしっかりと紹介してみせ、きちんとバランスをとっているところが、いかにも川端らしい)。

 さて、我々SFファンが知っている川端裕人は、『夏のロケット』以降の、小説家としての顔だろう。なにせ、かつて高校の天文部で一緒だったアマチュアたちが、いい歳をして自家製ロケットを組み立てて打ち上げてしまおうとする話に、あのブラッドベリの、あまりにも有名な短篇「ロケットの夏」をもじったタイトルをつけてデビューしてしまったのだから、SFファンは皆、いったいどんな作家が登場したのかと思ってしまったのではないだろうか。資金繰りから町工場での製作まで、絶妙なリアリティで民間(というより、個人)による有人宇宙船の製作を描いたこの作品は、どこまでもSFに近く、SFファンの心に響くロマンを共有していながらも、SF的なアイデアの飛躍をおこなわず、見事なまでに普通小説の顔をしていた。
 その『夏のロケット』から一転、小説第二作の『リスクテイカー』は、アメリカのニューヨークを舞台に、金融業界、それもヘッジファンドについて描いている。実のところ、話の構造自体は『夏のロケット』とよく似ている。大学を出たばかりの三人の若者が、最先端の経済物理学理論を駆使して国際為替市場に挑戦するという筋立ては、主人公たちが一途に夢を追い、既存の権威に挑戦してみせようとする点が『夏のロケット』と共通しているのだ。そこに描かれた登場人物の内的な成長と、それによって得た達成感と喪失感は、優れた青春小説(『夏のロケット』の主人公たちは、青春と呼ぶには少々年を食ってしまっているが)だけが持っているものだ。
 一方で、実のところ、『夏のロケット』よりも『リスクテイカー』のほうがSF味が強いのもおもしろい。主人公たちが駆使する為替売買用プログラム「バタフライ」も、それによって引き起こされたとされる国際為替市場での「三日間戦争」も全くの架空のものである。つまり『リスクテイカー』は、架空の科学技術が巻き起こした架空の事件を描いた擬似イベントSFなのだ。
 そして、新種の無煙タバコの開発を巡る人々の対立を描いた第三作『ニコチアナ』に至って、川端は現実と夢想の境界があいまい模糊とした現代的な幻想文学を書き上げた。この作品では、喫煙者と非喫煙者の対立の描写と並行して、喫煙の歴史をさかのぼり、西洋的な近代合理主義と南米の呪術的論理との対立が描かれていく。これは、喫煙というきわめて切実でリアルな問題を扱いつつも、世界の解釈を巡る科学と魔法の対立を描いたファンタジイでもあるという、きわめて挑発的な作品だったのだ。
 さらに、四作目の『The S.O.U.P.』で、川端は完全にSFの領域へと足を踏み入れる。経済産業省の依頼で、悪質なHP侵入者を追う天才ハッカーが、過去に自分が開発に参加したオンラインRPGゲーム「S.O.U.P」を介して、サイバー・テロリストたちが巣くっ
ていることを発見してしまう。しかも、彼らは世界規模のサイバー・テロを仕掛けてきた……、というのが『The S.O.U.P.』のあらましだ。コンピュータ文化の創生期から優れたプログラマたちが共有してきたハッカー文化やハッカー倫理の有り様や、今でこそ当たり前のように普及しているオンラインゲームについて、きわめて正確に描写しているところまでは、現代的な情報小説だが、ゲームのモチーフとして、そして、ハッカー倫理のメタファーとして、さまざまなSFやファンタジイ小説を用いたあげく、サイバーテロの手段としてワーム型の人工知能プログラムだといいだしたところで、本書は見事なまでの本格SFとして屹立してみせるのである。
 続く『竜とわれらの時代』は、質、量共に、現時点での川端にとっての最大の問題作であることはまちがいない。北陸の小村で完璧な竜脚類の化石が発掘された。それを利用して、自分たちの主張する創造科学を世界的に普及させようともくろむアメリカのキリスト教原理主義者に、それに敵対するイスラム教原理主義者まで現れ、日本の田舎町で激しい衝突を起こすことになる。
 この作品で川端は、『ニコチアナ』以上に、様々な価値観の対立を重層的に描き込んでいる。科学者となった兄と直感を重んじる弟の、兄弟ならではの確執を登場人物たちのドラマの要とし、その上に、アメリカ的な恐竜観と日本の田舎町に伝えられる素朴な竜神信仰との対立、科学とキリスト教原理主義との対立、アメリカの覇権主義とイスラム教原理主義との対立といった、さまざまな思想的対立を幾重にも重ね合わせて、文明とは何か、人間の人生とは何かまで問いかけてくるのだ。
 しかも、最後には真摯で精緻な科学と素朴で寛容な信仰の勝利が唱われるにもかかわらず、不寛容な者たちにも一貫して優しい視点と一定の理解を示すことを忘れていない。この結末こそ、川端裕人の優しさの真骨頂だろう。
 次の『せちやん』は、せちやん(「せち」は「SETI(地球外生命探査)」のこと)と呼ばれる天体観測マニアと出会った少年が、やがておとなになり、自分もまた市井の天体観測マニアになるという、かなりせつない青春小説だ。
 この作品では、それまでまったく普通の小説のように進んでいた物語が、最終章で急転、あまりにももの悲しいSF的な結末を迎える。それは、カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』が大好きだという川端の、彼なりの返歌であることはまちがいない。この衝撃は、SFでしか持ち得ないものだ。
 一方、その次の『川の名前』は、これまで川端がノンフィクションで蓄えてきた動物や自然への愛情が、一気に全面に押し出された感のある傑作だ。自分たちの町の川を夏休みの自由研究に選んだ小学生たちが、その川で驚くべき生き物と出会い、さまざまな体験を通じて、身近な自然の楽しさやおもしろさを実感していくという物語には、世界中の雄大な大自然を見てきた川端が、日本のどこにでもある風景の中の自然をがっちりと描いてみせたという、逆説的なおもしろさに満ちている(もちろん、川端ならではの隠し味として、意外な動物が登場していたりもする)。
 そこには、一貫して自然と人間とのより良い関わり方を模索してきた川端の、はっきりとした主張がこめられている。何よりも、少年たちが、子供の手にはあまりそうな問題を、懸命に自分たちだけで解決しようと、自然の中でちょっとした冒険を繰り広げるさまは、アーサー・ランサムの作品やマーク・トゥエインの『トム・ソーヤーの冒険』といった、伝統的な少年小説を思わせる。現代日本の、それもたいした田舎でもない町を舞台に、こんな小説を書いてしまうとは。川端裕人おそるべし。

 このように川端は、SFと一般小説の境界線上に位置する傑作・問題作を次々に送り出してきたのだが、世間的にはなぜか、あまりSF作家としては受け取られないでいる不思議な(いや、たぶん世間的な評価としては、それによってより一般的な「作家」として認められている幸運な)作家だった。
 その理由は、小説家としてデビューする前から、ナチュラリストとしての確かな視点を持ったノンフィクションを何作も発表していたからかもしれない。また、デビュー作の『夏のロケット』がSFではなくミステリの賞を取ったということにもあるだろうし、SFと一般小説の境界線上に位置する作風にもあるだろう。さらには、先に述べたように、現代的な青春小説としての側面をほとんどの作品が持ち合わせているということも、あるのかもしれない。
 特に『川の名前』以降は、バリバリ仕事で忙しい母親に代わって、育児に振り回される父親(かわいい愛娘に母乳をあげたいと願うあまり、女性ホルモンを自分に投与したりもする)の悪戦苦闘を描いた『ふにゅう』や、新人男性保育士が保育園で奮闘する『みんな一緒にバギーに乗って』、小学生たちの小さな冒険の日々を描いた『今ここにいるぼくらは』に、一見ごく普通の日本の少年たちが、八人制サッカーで世界最高峰のクラブチームと互角の戦いをしてみせる『銀河のワールドカップ』と、子供たちや、子供たちを取り巻く大人たちを描いた作品が続いているため、いよいよSF作家らしく見えなくなってきてはいる。
 もちろんそれは、単に作品の幅が広がったということにすぎず、『ニコチアナ』の路線を引き継ぎ、歌を通じてオーストラリアの原住民であるアボリジニと、現代文明との衝突を描いた『はじまりのうたをさがす旅』や、妻が病気で入院してしまい、一人で懸命に子供を育てている男性が、自然とのふれあいの中で癒しを得ていくというファンタジックな『手のひらのなかの宇宙』など、従来のようにSFと一般小説との境界線をいく作品も発表しているのだが。
 ともあれ、あれだけSF的な小説を何冊も書きながらも、川端裕人「SFとは違う世界の人」として見られていることが多いようだ。

 では、川端裕人はSF作家ではないのだろうか。
 ここまで紹介してきた彼の著作、たとえば『The S.O.U.P.』や『せちやん』を読めば、川端が「SFも書く」作家であることは、あきらかだろう。彼は多くの場合、最先端の科学を物語の中に取り込み、さらには現実の科学以上のアイデアをも持ち込んでいるのだ。
 ところが、『ニコチアナ』や『竜とわれらの時代』などを読んで、川端が科学に対して懐疑的すぎると感じるSFファンもいるようだが、川端は断じて反科学の徒などではない。
 大学で科学史と科学哲学を学んだ川端は、科学の現実に対する有効性ははっきりと認識した上で、科学もまた宗教や政治思想と同じ「思想」であるため通俗化によって誤解や誤用を招きやすいということや、科学的でない「現実」の捉え方も、そういう一貫した思想を持った人の精神上では「現実」として機能しうるということも承知しているのだ。科学の思想性に無自覚な自然科学者や、相対主義にはまり込みすぎて科学の有効性を認められない人文学者が多数存在することと比べて、川端は絶妙のバランス感覚で科学と接しているのである。
 確かに川端の小説には、反科学的な思想や信条を持つ人物たちが多数登場し、あまり否定的ではない、時には肯定的とすら思える描き方をされることがある。だが、よく読めば、川端は彼らの人格を全否定したりしていないだけで、その主張については、よくて留保、多くの場合はしっかりと否定してみせているのだ。そこには、彼がノンフィクションで取材相手に対してとった態度とまったく共通の、すべての人間に対する優しい視線が存在しているのである。
 そして他の何よりも、川端裕人はSFファンなのだ。
 川端自身の言によれば、八〇年代のサイバーパンクで置いてけぼりを食らってしまった感はあるものの、もともとはカート・ヴォネガットやハワード・ウォルドロップから、ラリー・ニーヴンやJ・P・ホーガンまで、なんでも読むタイプの海外SFファンだったというのである。

 そんな川端のSFファン気質と、動物好きとが見事にブレンドされたのが『小説現代』2006年2月号に掲載された短篇「みっともないけど本物のペンギン」だ。
 じつはこの作品は、ハワード・ウォルドロップの「みっともないニワトリ」を、川端裕人流にアレンジしてみせたものなのだ。ウォルドロップの「みっともないニワトリ」は、絶滅してしまったある鳥類への愛情と、人間の愚行に対する痛烈な皮肉とを、ウォルドロップお得意の入念な歴史考証で混ぜ合わせた作品だが、川端はそれを彼が熱愛するペンギンに置き換え、見事なまでに川端作品らしいせつない愛情に満ちた小品を書き上げている。
 ウォルドロップに対してこんな見事な本歌取りをする作家が、SF作家以外の何者だというのか(ちなみに、この「みっともないけど本物のペンギン」は、最新刊となるはずの『川端裕人動物小説集』に収録される予定だとか)。
 また、前々から川端は、科学者たちの日常を描いた小説を書きたいとも発言している。これには、たとえばグレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』のような、本格的な科学者小説の日本版を期待してしまうではないか。
 川端裕人が次にどんな作品を繰り出してくるのか。不意打ちされないよう、SFファンは彼の動向を注目し続けるべきだろう。

 最後に、川端から筆者に送られた、電子メイルの中の言葉を引用しておきたい。

    わが魂はSFにあり。
    しかし、遠くを彷徨っているのであります。

 そう。川端裕人は、SFという故郷から冒険の旅に飛び立った、優しいリアリストなのである。

【本文はここでおしまいです。内容を気に入っていただけたなら、投げ銭に100円玉を放ってるところをイメージしつつ、購入ボタンを押してやっていただけると、すごく嬉しいです。よろしく~】


ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?