小松左京のノンフィクション

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 2011年、河出書房新社から小松さん追悼として出版された『小松左京---日本・未来・文学、そしてSF』に書いた原稿。
 この時期、徳間書店からも『完全読本 さよなら小松左京』も出版され、双方から依頼されて小松さんのノンフィクション作品について書かせていただきました。
『小松左京---日本・未来・文学、そしてSF』では年代順、『完全読本 さよなら小松左京』ではテーマ別に書いたのですが、ここでは、より長文で詳細である『小松左京---日本・未来・文学、そしてSF』に掲載された年代順解説をアップしました。
 小松さんがいかに大量のノンフィクションを書いてきたか。そして、それがフィクションにどう反映されていたか。そのあたりに注目して読んでいただけると幸いです。
(ちなみに、上記2冊は今でもamazonなどで購入可能です。小松左京ファン、日本SFファンの方はぜひご一読をお勧めします)

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 小松左京と言えば、誰もが真っ先に思い浮かべるのは『復活の日』、『果てしなき流れの果てに』、『日本沈没』などといった傑作長篇SF小説だろう。
 だが、二〇〇六年に刊行された自伝的エッセイ『SF魂』の序文によれば「これまでに書いてきたものは、長篇が十七作、中・短篇が二六九作、ショートショートが一九九作。小説の単行本だけで六十二冊、このほかエッセイ・評論・ルポなどの単行本が六十八冊にのぼる」とある。つまり、分量だけで見れば、小松左京は短篇とノンフィクションの作家だと言えなくもないのである。
 特にノンフィクションは入手が難しいものが多く(ありがたいことに、オンデマンド版小松左京全集完全版のおかげで、大半が再び入手可能になってきたが)、その全容は今となってはなかなか把握しづらい。
 本稿では、小松左京の活動を便宜上以下の四期に分け、それぞれの時期に書かれたノンフィクションを紹介していきたい。
  1.未来学の時代I(一九六五~七三年まで)
  2.未来学の時代II(一九七四~七九年)
  3.地球社会学の時代I(一九八〇~九〇年)
  4.地球社会学の時代II(一九九一年以降)
 なお、小松の著作をこの四つの時期に分類したのは、作品の傾向のみならず、執筆以外の小松の活動との関連性を考慮したうえでなのだが、もちろんこれは筆者の私見に過ぎないことは、先に記しておく。

1.未来学の時代I(一九六五~七三年まで)
 この時期は、一九六一年の小説家デビューから『日本沈没』で日本を代表するベストセラー作家となるまでの期間にあたり、小松が最も精力的にSF長短篇を執筆していた期間でもある。
 すでにこの時期、小松のノンフィクションを特徴づけるいくつかの特徴が確立されている。
 まず、旅行記が多いということ。
 実は、SF作家である小松左京のノンフィクションだからといって、自然科学に関するものが多いというわけではまったくない。ノンフィクションではどちらかというと人文系の著作が多いのである。
 中でも旅行記は、ノンフィクション第一作でもある『地図の思想』(1965)に始まり、『ボルガ大紀行』(1987)に至るまで、西日本各地から始まって、日本全土へ、さらには諸外国の都市部巡りから、世界の辺境地域へと、まさに地球を駆け回った小松左京の足跡とその思索を、我々に伝えてくれる貴重な作品だ。
 特にこの時期の作品、『地図の思想』、『探検の思想』(1966)、『日本タイムトラベル』(1969)、『日本イメージ紀行』(1972)は、小松SFの創作の原点となる思考法や問題意識がほぼ含まれていると言っても過言ではない。そこには、『日本アパッチ族』や「本邦東西朝縁起覚書」などに通じる、小松がずっと持ち続けていた関西人としての強い郷土愛、中央への反感と地方への違和感、日本人への愛と失望などが、若い筆力で過剰に書き綴られているのである。しかも、旅行記でありながら、その模様は常にフィクション仕立てとなっているという、荒技を駆使しているのだ。
 こうした、破天荒とも言える筆致で日本全国について書き記したのち、小松はついに海外へと乗り出す。その第一弾である『歴史と文明の旅』(1973)では、小松の人情味溢れる人柄と、確かな文明批評の視点とが同時に楽しめる。旅行先として、執筆当時の日本人には縁の薄かったであろう国々を選んでいるのだが、それらの国の問題点を舌鋒鋭く批判するのではなく、そこに住む人々を暖かな目で描いているところが特徴的だ。これは、国際関係に配慮したと言うよりも、取材を受けてくれた現地に住む無辜の民に対する配慮なのだという(特に、当時の共産圏においては、万が一にも取材を受けた人が不利益を被ることがないように、小松は注意していたという)。
 これらの旅行記に共通する特徴は、その土地の今の様子を書き記すだけでなく、常にその土地の「歴史」に注目しているところにある。故事来歴をひもときながら、「過去」においてその場所で人々はどのような営みを続けてきたのか、その結果としての「現在」はどうなっているのか、を説いた上で、その延長線上の「未来」はどうなっていくのかを考察しているのだ。小松の「旅」は、「空間」だけでなく常に「時間」をも移動していたのである。この豊かな視点こそ、SF作家小松左京の面目躍如たるところだろう。
 第二の特徴が、先に書いた「未来学」への真剣な取り組みである。
「未来学」は、エッセイ集『未来図の世界』、『未来 怪獣 宇宙』(1967)、編著『シンポジウム 未来計画』(1967)に収録されたいくつものエッセイを経て、書き下ろし新書『未来の思想』(1967)で明確に宣言される。
 元々、この「未来学」という考えは、『地図の思想』連載時に知己を得た文化人類学者・梅棹忠夫との交流の中で生まれてきたものである。
 梅棹と意気投合した小松は、京都の梅棹家で開かれていた「梅棹サロン」に参加し、林雄二郎、川添登、加藤秀俊ら、いわゆる「京都学派」の人文科学者たちと知り合い、そのメンバーを主体にした「万国博を考える会」にも参加、その活動が話題になったことから、一九七〇年の大阪万博にもコミットしていくことになる。
 その一方で、同じメンバーによる「未来学」考察の試みも盛んになり、六八年には「日本未来学会」が創設させ、小松も参加することになった。ちなみに、彼ら京都学派の人々との交流は終生続き、SF外における小松左京の人脈の大きな基盤となっていった。
 ここで小松が唱えていた「未来学」は、未来をバラ色のものとしてとらえるわけでもなければ、極端に暗い未来像を思い描くものでもなく、人間が推し進めている科学技術文明の在り方に疑問を投げかけつつ、その先に何があるのかを見据えたい、という非常に冷静な宣言であった(後のエッセイ集『ニッポン国解散論』(1970)で小松は、「未来論は未来に対する『危機意識』から起こってきている」と明言している)。
 対談がきわめて多いということも、小松左京のノンフィクションの大きな特徴だ。自然科学・人文科学を問わず、基本的に小松は「専門家に聞く」という姿勢を貫いており(その上で、どんなジャンルにおいても専門家と対等に意見を交わしているところが、小松の尋常ならざる凄みなのだが)、実のところ特定の専門分野について本人が解説した単著は数が少ないのである。
 この時期では、今西進化論で知られるサル学の権威、今西錦司と、地理学者・文化人類学者の川喜田二郎を相手に、人類の行く末について語り合った『人類は滅びるか』(1970)、劇作家・評論家の山崎正和とともに巷にはびこる俗論や常識(=神話)にかみついてみせた『現代の神話』(1973)などがあるが、何よりも圧巻なのは、やはり『地球を考える』(1972)だろう。
 これは、当時第一線で活躍していた科学者・人文学者たちと「地球の未来を考える」を言うテーマで語り合った対談集だが、自然科学者4人(うち2人は生物系)、工学者1人、哲学者2人、経済学者1人、政治学者1人、歴史学者2人と対話した後、文化人類学者である梅棹忠夫と話して締めるという構成になっている。全体で見ると、理系よりも文系の研究者のほうが少し多い配分になっているのだ。このこのバランス感覚というか、広い視野こそが、小松左京の真骨頂であろう。小松左京の興味や問題意識の根本を知る上で、大変貴重な書籍である。
 最後にもう一つ、小松ノンフィクションの大きな特徴として、第二次世界大戦末期から戦後すぐにかけての日本に対する、激しい憤りと絶望、そして(逆説的ではあるが)その体験に裏打ちされた楽天主義が、小説よりもストレートに表現されているところを挙げておきたい。
 たとえば、エッセイ集『未来図の世界』(1966)に収められている「廃墟の空間文明」では、終戦直後、廃墟と化した大阪の町並みで体験した、絶対的な虚無の世界の衝撃を赤裸々に語っている(ちなみに、この『未来図の世界』は、あまりにも有名な「拝啓イワン・エフレーモフ様 -「社会主義的SF論」に対する反論-」を始め、「SFの積極的意義」や「万国博はもうはじまっている」といった名エッセイが詰まった好著)。
 筆者が思うに、小松左京の「未来」指向や、常に希望を忘れない姿勢というのは、このいわゆる「焼け跡体験」による絶対的な喪失感の裏返しなのではないだろうか。
 つまり、一旦破滅した(かに見えた)日本の絶望的な状況の中で、なお自分は生きているという状況から生まれた、まさにパンドラの箱の底から現れたような「希望」こそが、小松左京の楽天主義の原点なのではないか。
 そう考えれば、初期の小松の「未来学」エッセイに常に存在する、ある種の虚無的な思い(繁栄も文明も一瞬で崩れ去るものであるという認識)が理解できる気がするのである。

2.未来学の時代II(一九七四~七九年)
 この時期の小松左京は、その旺盛な創作意欲で多彩な短編を書き分けている。従来通りの本格SFはもちろん、ホラーや人情ものといったまったく趣向の違う短編を量産しているのだ。中でも、「女」シリーズや「芸道もの」と呼ばれる作品群は、その完成度の高さでファンのあいだでも評価が高い。
 この時期のノンフィクションに顕著なのは、文化人類学的なアプローチの深化と、対談の多さにある。
 交流のあった作家や文化人との気のおけない会話を集めた『小松左京対談集 日本を沈めた人』(1975)や、SF作家仲間とのたちの悪い冗談を交えた放談集『SF作家オモロ大放談』(1976)といった、肩のこらない読み物的なものから、芸術論から始まって東西の文化比較へと至る『絵の言葉』(1975)、人間の性愛について、生物学と文化人類学の見地から語り合ったシンポジウムの記録『性文化を考える』(1974)、さらにはそれを一般向けにおもしろおかしく説いた『恋愛博物館』(1975)や『人間博物館』(1977)、指揮者や劇作家、マンガ家たちといった芸術家系の専門家たちと対談した『二十一世紀学事始』(1978)等、実にバラエティに富んでいる。
 これまであまり言及されたことはなかったように思うが、『絵の言葉』や『二十一世紀学事始』の対談、もしくは『探検の思想』に収録されているグラフィックデザイナー粟津潔との対談などから伺える、小松の美術に対する造詣の深さは、日本の古典芸能についての造詣と並んで、小松左京のバックボーンとして大いに注目すべき点だろう。
 もちろん、『地球を考える』のような、科学者たちを相手にその専門分野について話を聞く『学問の世界 碩学に聞く』(1978)、『生命をあずける 分子生物学講義』(1979)といった対談集も続けて編まれている。
 一方で、歴史、特に日本の古代史や中世史に関する強い関心が、『おしゃべりな訪問者 架空インタビュー』(1975)、『日本文化の死角』(1977)、『日本史の黒幕』(1978)といった形で結実するようにもなったのもこの時期の特徴だろう。
 この時期のノンフィクションで特に注目したいのは、『異常気象』(1974)だ。これは、『日本沈没』執筆時から調べ始めたという地球の気候変動問題を、「氷河期は来るのか? 来た場合、食糧問題はどうなるのか?」といった観点から、さまざまな科学者に取材したものをまとめたものだ。
 中にまとめられている知見は、今となっては古い学説であったり大きく外れた予測であったりはするものの、当時、すでにこれだけの研究を一作家がまとめあげたというだけでも驚異的なことだろう。また、海流と気候との関連についての話も出ており、『日本沈没 第二部』(2006)の構想の芽がこのときすでに確としてあったことが伺えることも興味深い。
 さて、この『異常気象』の最終章「地球政治時代への提言」で小松は、今後人類が「環境」と向き合っていくにおいて、地球規模で政治を考えていくことの必要性を説いている。
 この考え方をさらに推し進めたのが、『地球社会学の構想』(1979)だ。この本自体は、雑多なエッセイを集めたもの(中では、当時すでに「失敗学」の必要性を説いていた「「失敗研究所」設立の勧め」や、科学技術文明の在り方を、人間と自動車との関係から考察した「「機械化人類学」の妄想」が滅法おもしろい)だが、その最終章で小松は、地球全体を一つの社会として考え、その来し方行く末を考えるようにしていく必要性を説き、それに「地球社会学」と名づけているのである。
 この構想には、後の小説『さよならジュピター』に登場する「SSDO:太陽系開発機構」の萌芽を見ることができ、八〇年代以降の小松左京の指向性が伺えるものとなっている。
 もう一点、重要なノンフィクションとして挙げておきたいのが、初のまとまった自伝的作品『やぶれかぶれ青春記』(1975)だ。小松には前述したとおり、戦中戦後の体験についての激しい鬱屈があるが、それを自身の学生生活に的を絞って正面から書き綴ったのが、この本なのである。特に前半、戦中戦後の暗い旧制中学生活の話がひたすら続くあたりは、読んでいて息が詰まりそうになる。いかに小松左京が戦争を憎み、日本と日本人というものを愛しつつも、どこか冷めた視点をもっていたのか、その原点がわかる一冊だろう。
 さらに本書は、後半に入って旧制高校に入り、ようやく青春を謳歌し始めたのもつかの間、学校制度の改革によって一年で大学に進むことになるところで終わってしまう。『大学生活は中学以上につらく、しかもそれはもはや「青春」ではなかった』と書いて。 
 本作は受験生向けの学習雑誌『蛍雪時代』に連載されていたというのだが、当時これを読んだ受験生はどう感じたのだろう。

3.地球社会学の時代I(一九八〇~九〇年)
 この時期の小松は、前半は映画『さよならジュピター』の製作と、その後の「後始末」(本人言うところの「養生」)としての様々なプロジェクト参加、そして後半は「国際花と緑の博覧会」の総合プロデュースという、いくつもの大仕事に忙殺されていた。
 そんな中でも大作長編『さよならジュピター』、『首都消失』、『虚無回廊』を立て続けに発表するのだが、花博の準備が佳境に入った八八年から花博が開催された九〇年にかけては、ついに執筆活動がほぼストップしてしまい、『虚無回廊』は掲載誌の休刊という事情も相まって、未完となってしまう。
 ノンフィクションにおいても事情は同じで、八七年の『ボルガ大紀行』を最後に(過去の雑誌掲載原稿をまとめた『「自然の魂」の発見』(1990)を除くと)、九一年まで出版が途絶えている。
 作家小松左京のファンとしては、「もっと執筆に集中してくれていれば」という思うことは当然ではあるだろうが、プロデューサー業も含めて、というより、作家という枠に収まりきらなかった小松左京という人の「創作活動」全体を考えたとき、この時期の「映画製作」と「イベント開催」は、小松の大きな業績だと見るべきであろう。
 さて、この時期の小松左京のノンフィクションは、数は減っているものの、内容という意味では今まで以上にさまざまなバラエティに富んでいる。
 地球社会学の考え方を推し進め、メッセージ性を高めた『地球文明人へのメッセージ』(1981)や、初心者向けにSFについて解説すると共に本人のSF観も語ってみせた『小松左京のSFセミナー』(1982)といった、啓蒙的な側面の強いもの、他者の著作に対する解説文を集めた『読む楽しみ語る楽しみ』(1981)と『机上の遭遇』(1982)、対談ではない単著による肩の凝らない科学エッセイである『はみだし生物学』(1980)や『犬も犬なら猫も猫』(1984)、あまり知られていない近世以前の大阪史をひもといた『大阪タイムマシン紀行』(1982)、文化人類学者の石毛直道と共に日本の代表的な食から世界の食文化を大いに語った『にっぽん料理大全』(1982)、日本文化への愛情を語った『「自然の魂」の発見』(1990)、そして、ついに世界の果てまで旅することとなった旅行記、『遠い島遠い大陸』(1981)、『黄河 中国文明の旅』(1986)、『ボルガ大紀行』(1987)などである。
 中でも特異なのは、後にも先にもこの二冊だけとなった解説・書評集、『読む楽しみ語る楽しみ』と『机上の遭遇』だろう。作家・小松左京が評論家としても鋭い分析力と批評眼を有していた「目利き」であったことが具体的にわかる好著なのだ。
 星新一のショートショートのおもしろさを定量的なデータつきで解析してみせたかと思えば、田中光二論とモンキー・パンチの『ルパン三世』論では活劇の本質を突いた指摘をいくつも放ち、生島治郎や三浦浩といいた冒険小説ハードボイルドの作家について的確な評価を加えているところなど、SFのみならず小説全般に対して広い嗜好と見識を誇っていたことがよくわかる。
 中でも、大学時代の学友で長年の盟友でもあった高橋和巳について語った長文は、ただただ圧巻の一言。作家にとって、小松左京のような理解者を持てれば、それに勝る歓びはないと言ってもいいほどの熱い心のこもった名文である。
 この二冊はまた、半分ほどは小松の交友録という側面もあり、『小松左京対談集 日本を沈めた人』同様、高橋和巳、田辺聖子、開高健、藤本義一、桂米朝等々、SF界とはまた違う、関西文化圏の人々との幅広い交流を教えてくれる本でもある。 
 我々SFファンはついつい小松左京は「我々のもの」だと思いがちだが、小松のノンフィクションを丹念に読んでいくと、京大人文研の人脈も含め、小松左京という人がもっと広くて大きい世界に生きていた人であったことが見えてくるのだ。 
 なお、高橋和巳に関しては、小松はさらに二冊の編著を出している。
『邪宗門』などの小説で知られる高橋は、小松とはまったく違う作風の純文学作家であったが、小松は高橋の才能を大いに認めており、彼の早世を惜しむ文章をいくつも書いているだけでなく、『高橋和巳の青春とその時代』(1978)と『高橋和巳の文学とその世界』(1991)という二冊の研究書を編集している(『高橋和巳の文学とその世界』は梅原猛との共編)のである。
 小松は「こちらの方向は高橋が書くから、自分は別の方向(=SF)を」というような意味の文章も再三書いている。
 小松左京が高橋作品をどう評価し、自分の中でどう咀嚼していったかを考えるのも、小松左京作品を考えるにあたっての、重要なポイントの一つであろう。

4.地球社会学の時代II(一九九一年以降)
 花博終了後、九二年頃から小松左京は再び執筆を再開する。
 ところが、ここで「不幸な」としか言いようのない事態が生じる。
 一九九五年、阪神淡路大震災の発生である。
 小松は、当時連載していた『こちら関西 戦後編』を急遽打ち切り、震災の取材に集中することとなる。この成果は、翌年『小松左京の大震災'95』としてまとめられた。
 この本は、震災直後の様子から、被害状況、その後の調査結果に至るまで、膨大かつ丹念な取材の成果がまとめられている好著である。もっとも、この本の中で小松が嘆き、批判し、提言したさまざまな事柄は、結局は東日本大震災でも生かされないままになっているように見えることを思うと、なんとも虚しい気持ちにもなってしまうが。
 そして、小松左京自身は、この仕事のあと、本人の談によれば、九五年に起こった様々な出来事(震災、地下鉄サリン事件、友人諸氏の死等)の影響で鬱状態に陥ってしまい、仕事が手につかなくなってしまう。
 結局、これ以降、小松の著作はそのほとんどが聞き書きによるノンフィクションとなってしまったのだった。
 このとき、小松左京いまだ六十五歳。人によってはまだまだ創作を続けている年齢であり、惜しんでも惜しみ足りない早すぎる沈黙であった。
 とはいえ、この時期に発表されたノンフィクションは聞き書きとはいえ点数も多く、内容的にも小松左京の人生を集大成するかのようなものが多数含まれていて、充分注目に値する。
 中でも、小松が最も落ち込んでいた時期、ある意味後輩にあたるSF関係者と対談することで成立した『SFへの遺言』(1997)や『教養』(2001)は、SF関係者の強い絆を感じられる。
 また、小松の旺盛な好奇心は健在で、『宇宙・生命・知性の最前線 十賢一愚科学問答』(1992)、『紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性 地球紀日本の先端技術』(1999)など、最新の科学や技術について、専門家に問い続けていた。また、『鳥と人』(1992)のように、人間と鳥の関わりについて、取材を交えて書き下ろしたものもある。
 一方で、『地球文明人へのメッセージ』よりもさらにメッセージ性の高い書籍が増えている。『ユートピアの終焉』(1994)、『未来からのウインク』(1996)、『天変地異の黙示録』(2006)などがそれで、いずれも、自身のSF観や未来観を語り、地球規模で未来を考えることを説いている。
 なかでも『未来からのウインク』は後半部分に、『SFセミナー』、『ユートピアの終焉』と改稿されてきた、小松左京のSF観をさらに改稿、明快かつ平易に説いた文章が収録されており、小松SFについての重要な参考文献となっている。
 一つ気になるのは、後年になるに従って、そのメッセージ性の強さが、小松自身のSF観を狭めてしまったように読めてしまうところだ。
『紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性』も含めて、九〇年代後半から小松は、繰り返し『「宇宙」という「挑戦対象」が残されている限り、人類が「内面的退廃」に落ち込むことはないはずだ』という信念を語るようになる。
 それが『紀元3000年へ挑む科学・技術・人・知性』ではついに、『宇宙をチャレンジの場として、挑戦しつづけていくことに意義がある、というイメージを提供するのがSFではないだろうか?』とまで書いてしまっているのである。
 小松が人間の内面的退廃に対する危惧に言及したのは、七〇年代に書かれたノンフィクションからではあるが、当時は少なくともこのような「SFの幅を限定する」ようなことは言わなかった。
 というよりも、当時の小松左京は『SFとはありとあらゆることに対する「異議申し立て」としてある』と語っていたわけで、この二つの発言のあいだには、ずいぶんと距離がある。
 この七〇年代と二〇〇〇年代の小松左京の言説の差違は、単に元々両立していた異なる側面の出方が変わっただけなのか、何らかの心境の変化があったのかが、大変興味深い。
 関西に対する強い愛着をストレートに表現した書籍が多いのもこの時期の特徴だ。
 大阪について書いたエッセイを一冊にまとめた『わたしの大阪』(1993)、明治以降、東京と並ぶ日本の文化発信基地として機能してきた大阪の姿を丹念な取材で描きだした『こちら関西』(1994)と『こちら関西 戦後編』(1995)、半分は自身の伝記でありながらも、自身の歴史と重ね合わせる形で大阪の文化史を語った『威風堂々うかれ昭和史』(2001)などがそれだ。
『地図の思想』などの初期の紀行ものや、『大阪タイムマシン紀行』もそうだが、小松の地元である大阪贔屓は、そのまま小説にもよく顔を出す、南朝贔屓や中世の堺贔屓にもつながっているのだが、これらの本では、その理由である「愛すべき大阪像」が色濃く描かれている。
 そこには、大阪人が歴史的に持ち続けてきた「政治音痴」を嘆きつつも、その一方で、だからこそ保ってきた「反権威」で「アナーキー」な気風を愛するという、小松の郷土愛が盛り込まれているのだ。
 またこの時期は自伝や回顧録が多いのも見逃せない。
 先に挙げた『威風堂々うかれ昭和史』はもちろん、『巨大プロジェクト動く 私の「万博・花博顛末記」』(1994)、『SF魂』(2006)、『小松左京自伝 実存をもとめて』(2008)等、座談会形式で自身の過去を振り返った『SFへの遺言』(1997)も含めると、五冊もが刊行されている。
 中でも、『巨大プロジェクト動く』は、小松左京が関わった二つの万国博覧会、大阪万博と花博の回顧録であり、あまり知られることのない大型イベント「万国博」の内幕を、関係者であると共に希代の作家でもある小松左京の目で眺めた貴重な資料となっている。
 全体に一貫しているのは「利権嫌い」、「持ち出し覚悟」、「おもしろがり」、そして「官僚嫌い」と「中央嫌い」という、小松左京という人の本質が、巨大な官主導の事業と相対して一歩も引かずに格闘した記録となっているところだ。
 晩年まで、作家としてだけでなくプロデューサーとしていろんなことを動かすのが大好きだったことや、関西の経済的および文化的地盤沈下に心を痛め、なんとか大阪から文化を発信したいと考えていたことが、はっきりと書かれているところも興味深い。
 小松左京の自伝には、これらの他にもすでに言及した『やぶれかぶれ青春記』があるのだが、いずれの本も小松の生涯のある側面のみについて書かれているものが多く、それぞれに一長一短がある(たとえば、『SFへの遺言』には他には載っていない映画版『さよならジュピター』製作時の苦労話が載っている一方、通史である『SF魂』や『小松左京自伝 実存をもとめて』はあまりにもページ数が少なすぎて、詳細が不明だったりする)。
 ぜひとも、今後誰か冷静な第三者による、丹念な取材と調査に基づいた、しっかりとした評伝を書かれることを期待したい。

 なお、繰り返しではあるが、小松左京のノンフィクションは大変数が多く、さらには対談やシンポジウムの再録など小松名義では出ていないものまであるので、とても全貌を網羅しきれていない。また、枚数の関係もあって、駆け足での紹介となったことをお許し願いたい。

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