多重プロットドラマとしての「仮面ライダー555​(ファイズ)」

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 2012年、『ユリイカ』の「平成ライダー」特集増刊号用に書いたもの。
 こんなに偉そうに他人様、それもその道の大先輩のシナリオを分析していいのか、悩んだのですが、具体的な構成論で、井上さんがどんなに野心的なことをやってたか、書いておこうと思って、原稿依頼を受けました。どうせ、こういう観点の原稿、誰も書かないだろうなあ、という気もしてたもんで。
 あと、海外ドラマファンと特撮ファン双方に届いたらいいんだけどなあ、という、けっこうムリ目かもしれない期待も入っております。

 ちなみに、幸か不幸か、この何年も井上さんとお会いする機会がないので、ご本人の感想は聞いてません。いや、恐くて聞けないって。(^_^;)

 なお、この本は今でもamazon(以下のリンク先)などで購入可能なので、未読の方はぜひ。井上さんの参加した座談会など、バラエティ豊かな内容です。

『ユリイカ2012年9月臨時増刊号 総特集=平成仮面ライダー 『仮面ライダークウガ』から『仮面ライダーフォーゼ』、そして『仮面ライダーウィザード』へ・・・ヒーローの超克という挑戦』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4791702425/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4791702425&linkCode=as2&tag=fiawol-22
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1.多重プロット・ドラマとしての平成ライダー
『仮面ライダークウガ』から始まった、いわゆる「平成ライダー」と呼ばれる『仮面ライダー』をタイトルに冠する特撮ドラマ群は、それまでの仮面ライダーとは一線を画する「新たなヒーロードラマ」をめざして、毎回さまざまな試みが為されている。その結果が、バラエティ豊かなシリーズ化へとつながり、豊かな実を結んでいると、筆者は考える。
 中でも、ベテラン脚本家井上敏樹(井上さんは、脚本家として筆者の大先輩にあたる方であり、実際にその下で仕事をさせていただいたこともあるので、敬称を略して呼ぶのは実に恐れ多いのですが、本稿の性格上、ここは慣例として、井上さんも含めて人物名はすべて敬称を略すことにします)がメインライターとしてシナリオを担当した『仮面ライダーアギト』、『仮面ライダー555(ファイズ)』、『仮面ライダーキバ』の三本は、特撮アクションものの枠を守りつつも、日本のテレビドラマ史上でもあまり例を見ない「多重プロットによるアンサンブル・プレイ」を展開してみせた、大変意欲的な作品である。
 本稿では、『555』を中心に、このストーリー構成上の野心的な試みと、それによって描きだされた「ヒーローもの」としてのテーマ上の挑戦について、考察していきたい。

2.多重プロットのドラマとは何か
 まずは、アメリカの映画やテレビドラマに馴染みのない人には聞き覚えのない単語であろう「多重プロット」について、説明したい。
 多重プロットとは、まさに読んで字の如く、二つ以上の複数のストーリーが並行して語られていく型式を指す。
「多重プロット」は、映画やテレビドラマにおいては、「グランドホテル形式」もしくは「アンサンブル・プレイ」と呼ばれることが多く、また、ミステリ小説(特に警察小説)においては「モジュラー型」小説と呼ばれる。
 グランドホテル型式とは、同じ場所に同時に集まった複数の人々の行動を並行して描いていく手法のことで、映画『グランド・ホテル』で効果的に使われたためにこの言葉が生まれた。演劇の用語としては、群像劇、もしくはアンサンブル・プレイという言い方をする。つまり、誰か「特定の主人公がいない」もしくは「主人公が複数いる」ドラマという言い方もできる。
 映画においては、七〇年代に流行ったパニック映画(『大空港』、『大地震』、『ポセイドン・アドベンチャー』など)に多く使われていたことでも知られている。突然、災害等の巨大な状況に放り込まれた多数の一般人を、彼らの視点から描くための効果的な手法として使われていたわけである。
 一方、「モジュラー型」小説というのは、いくつものモジュールから構成されている小説という意味である。通常のミステリ小説では、主人公たちが一話につき一つの事件を解決に導くまでが描かれる。だが、現実の世界では、多くの事件が同時に起こっており、それを捜査する警察官たちも、それぞれいくつもの事件を抱えている。その様子をそのままフィクション化して、同時に進行する複数の犯罪捜査を並行して追いかけたのがモジュラー型警察小説というわけだ。
 これは、J・J・マリックの《ギデオン警視》シリーズを嚆矢とし、エド・マクベインの《87分署》シリーズなど多くの後継者を生み出した。
 そして、八〇年代に入ってこの手法は、とある警察署内の人間模様を描いたテレビドラマ『ヒルストリート・ブルース』にも用いられ、アメリカのテレビドラマ界に革命を引き起こす。それまで、一話完結型のミステリドラマ一辺倒だった警察ドラマを、ストーリーの連続性が高い、キャラクター重視の人間ドラマに変貌させたからだ。
 さらにそれは、『LAロー 七人の弁護士』によって法廷ドラマへ、『スタートレック ネクスト・ジェネレーション』によってSFドラマへ、そして『ER 救急救命室』によってメディカル・ドラマへと転用され、八〇年代から九〇年代にかけて、アメリカテレビ界を席巻することとなった。この現象をもって、八〇年代をアメリカ・テレビドラマの第二の黄金時代と位置づけた評論まで書かれている。
 先に書いた通り、アンサンブル・プレイは多数の登場人物が入り乱れる群像劇である。したがって、テレビドラマにおいては、大家族を扱ったファミリー・ドラマなどでこの手法が使われることが多かった。アメリカならば『ダラス』、日本なら『渡る世間は鬼ばかり』などがその典型的な例だろう。
 その手法を、ミステリやSFといったジャンル・フィクションに転用したところが、『ヒル・ストリート・ブルース』を初めとするドラマの新しいところだったわけだ。
 しかし、日本のテレビドラマにおいては、この手法はいまだにジャンル・フィクションには定着しているとはいえない。アメリカではある種定番となったとも言える「モジュラー型警察ドラマ」も、日本では全くといっていいほど姿を見ない(筆者の知る限り、日本でのモジュラー型警察ドラマの先鞭は、かの超人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』の後番組として一九八七年に放送された『ジャングル』なのだが、多重プロットの同時進行が視聴者に受け入れられなかったようで視聴率がふるわず、途中で一話完結型に路線変更、結局一年ちょっとで終了してしまっている)。
 そんな中、果敢に複数主人公かつ多重プロットのストーリー構成に挑戦し続けたのが、平成ライダーにおける『アギト』、『555』、『キバ』であり、そのメインライターである井上敏樹なのだ。

3.『アギト』、『555』、『キバ』の多重プロット構造
 前置きが長くて恐縮だが、『555』そのものの話に入る前に、ここで『アギト』、『555』、『キバ』の、それぞれの多重プロットの構造の違いについて触れておきたい。
『アギト』は、仮面ライダーで初めて、三人のライダーを同時に主人公格として登場させた記念すべき作品である。
 それまでの、いわゆる「昭和ライダー」においても、『仮面ライダー』における、一号、二号の共演から、『仮面ライダーストロンガー』における七人ライダーそろい踏みといった、複数のライダーが共演することは何度もあったが、いずれの場合も「その作品の主人公ライダーを、前作の主人公ライダーが補佐するためゲスト出演する」という形でしかなかった(『仮面ライダー』の場合はちょっとややこしいが、要は二号が主役の時は一号がゲスト、新一号が主役の時は二号がゲストと考えていい)。
 また、『アギト』以降、『仮面ライダー龍騎』をはじめとするすべての平成ライダーにおいて、一作品に常に複数の仮面ライダーが登場、時には敵に、時には味方として戦っていくこととなる。だが、それらの作品と、『アギト』、『555』、『キバ』とのあいだには、ストーリー構成上の明確な違いがある。
 それこそが、プロットの多重化である。
 アギトにおける三人の仮面ライダー、アギト、G3、ギルスたちは、それぞれ常に別個に行動しており、そのストーリーラインは時折交錯するものの、基本的には別々の物語が並行して描かれていく。彼らは同格の主人公たちなのである。
 彼らは、それぞれ「仮面ライダーである者」、「仮面ライダーになろうとする者」、「仮面ライダーになってしまった者」という、異なった事情を持つ仮面ライダー((=ヒーローと言い換えても良い)であり、『アギト』の大きなテーマの一つは、「ヒーローであることとは何か」を三つの異なる立場から描くことにあったと考えていいだろう。
 一方、『555』においても、ライダーは三人(というより、この作品の場合、ライダーベルトは三つと言った方が正確だが)登場するが、主人公格のライダーはあくまで555である乾巧だけであり、他のライダー達は脇役である。
 その代わり、乾たち主人公グループと対をなす、もう一つの主人公グループとして、作中で「オルフェノク」と呼ばれている「怪人」に変身するようになってしまった若者たちを配するという形で、多重プロット化を為しているのだ。
 つまり、『アギト』が、出自の異なる三人の仮面ライダーたちを主人公とすることで「ヒーローとは何か」を描こうとしたのに対して、『555』は、「仮面ライダー」と「怪人」の双方を主人公とすることでやはり「ヒーローとは何か」を描こうとしたと筆者は考える(これについては、次項以降で詳述したい)。
 そして、この多重プロット構造は、『キバ』においてさらに過激なものとなる。『キバ』ではなんと二人の主人公が、別々の時代に生きており、その二つの時代の物語が並行して語られていくのである。『アギト』や『555』と違って、『キバ』の主人公二人は、時間によって隔たりができてしまっているのだ。彼ら二人は親子という関係なのだが、ここでもやはり、「自ら戦いに参加していく」父と、「宿命によって戦いに巻き込まれる」息子とを対比することにより、「ヒーローとは何か」が問いかけられている。
 このように、これら三作品では、複数主人公による多重プロットという構造を用いることによって、特撮ヒーロー番組の重要なテーマの一つである「ヒーローとは何か」について多面的に掘り下げることを可能にしているのだ。

4.『555』の多重プロットの特徴
 とはいえ、『アギト』や『キバ』における多重プロットの試みが完璧に成功しているとは、言い難いものもある。なぜなら、『仮面ライダー』には、特撮アクションドラマとしてのフォーマットがあり、それが多重プロットを阻害する要因となりやすいからだ。
 具体的に言えば、『仮面ライダー』というテレビドラマにおいては、「毎回新しく一体登場する(平成ライダーでは二話に一体)怪人と、ライダーが戦う」ということだ。
 通常の「モジュラー型警察ドラマ」であれば、複数の刑事たちが別々の事件(=犯人)を追う描写を行うことができるが、『仮面ライダー』においては(幹部怪人と通常の怪人とが別々に行動をしている場合以外は)、常に敵は一体だけなのである。
 このため、『アギト』においては、ヒーローとして事件に積極的に関わろうとするアギト、警官の職務として事件に対応するG3と比べて、自らの変身に悩むギルスのエピソードは、どうしてもメインストーリーとなりにくいきらいがあった。
 また、『キバ』においては、過去(二〇年前)と現在のエピソードが交互に描かれても、敵となる怪人は同じであるため、過去編では決着がつかず、アクションという意味においては、現在編と比べるとカタルシスに乏しくなりがちだった。
 逆に言えば、この厳しい制約の中で、シリーズを描ききった井上敏樹らスタッフのチャレンジ精神と力量には、頭が下がる。
 一方、この二作と比べると、『555』は多重プロットの構造が『仮面ライダー』のフォーマットに阻害されないようになっているバランスの良さが特長的だ。
 前項で書いたように『555』の多重プロットはライダー側である乾巧たちと怪人(オルフェノク)側である木場勇治たち、二つの主人公グループを均等に描いている。
 そして、それとは別に、物語上の敵役として、オルフェノクたちを保護・管理しているスマートブレイン社であり、毎回新たに誕生するオルフェノクたちを登場させている。毎回、彼ら新怪人たちと、乾たち、もしくは木場たちが戦うことによって、『仮面ライダー』の番組フォーマットが保たれているのである。
 しかも、毎回登場する新怪人を真ん中に挟んで、二派の主人公たちが対峙する形を取っているため、双方のドラマのバランスが取れ、描き方の比重が均等になっているのだ。
 さらに言えば、毎回登場する怪人たちに対して、二派の主人公グループが「それと戦う者」と「それと同類である者」という対極の存在であることによって、『仮面ライダー』の、いや、もっと大きく言えばありとあらゆるヒーローもののフォーマットである「正義の味方と悪との戦い」を、両面から描くことに成功しているのである。
 これらのポイントこそ、多重プロットの採用が『555』にもたらした、作劇上の重要な成果だと言えるだろう。

5.平成ライダーにおける「正義」と『555』の多重プロット
『クウガ』に始まった平成仮面ライダーシリーズは、かつての昭和ライダーとは違って、常に「正義とは何か?」、「ヒーローとは何か?」という問いを発し続けていることは、ファンならば誰もが承知しているところだろう。
 それは、『555』においても例外ではない。この作品における怪人=オルフェノクは、人間たちのあいだから自然発生的に生まれてくる存在である。だが、それは人間と同じ高い知性を持ち、人間以上の能力を備えた、もはや別種の生命体でもある。つまり、『555』の物語は、SFでお馴染みの新人類テーマの一つである、地球の覇権を賭けた種と種の争いであり、単純な正義と悪の二元論で割り切れないようになっているのだ。
 前項で触れたように、『555』においては多重プロットを用いてライダー側と怪人側の双方から物語を語っている。こうすることで、この「種と種の争い」を両方の立場から均等に描くことに成功しているのである。
 もう一点、平成ライダーが昭和ライダーと決定的に違うところは、主人公が「仮面ライダーというサイボーグに改造される」のではなく、「普通の人間のまま、ライダーベルトの装着によって仮面ライダーに変身する」というギミックが基本となったため、「異形の存在になってしまった主人公の苦悩」という要素が抜け落ちているところにある。
 しかし、『アギト』、『555』、『キバ』は、多重プロットを導入することによって、平成ライダーらしい「ベルトで変身する普通の人間」と「異形の存在になってしまった人間」の二種類の主人公を同時に登場させ、対比させることに成功している。
 特に『555』の場合は、「異形の存在になってしまった人間」をライダーではなく怪人として明確に位置づけ、「怪人になってしまった人間の苦悩」を描いているところが、他の平成ライダーとの最大の違いであり、特色だろう。
 元々、最初の仮面ライダー(一号、二号)は悪の組織であるショッカーの改造人間、すなわち怪人たちの一人として誕生している。したがって、『555』の怪人側主人公である木場勇治たちは、まさに昭和ライダー直系のキャラクターなのだ。
 つまり『555』は、昭和ライダーと平成ライダーが激突するドラマと言えなくもないのである(実は、平成ライダーである555に変身する乾巧にも、重大な設定上の秘密があるのだが、ネタバレになるのでここでは言及しない)。
 これもまた、モジュラー型のドラマだからこそ成し得たことだといえば、我田引水が過ぎるだろうか。

6.『555』の挑戦が遺したものとは
 先に、八〇年代から九〇年代にかけて、モジュラー型ドラマがアメリカテレビ界を席巻することとなったと書いた。
 だが、アメリカにおいても、二〇〇〇年に放送がスタートした『CSI:科学捜査班』の大ヒット以降、それに追随するように特殊捜査もののドラマが続々と登場、ミステリドラマの主流は一話完結型の謎解きものへと戻っていき、いまやモジュラー型警察ドラマはほとんど壊滅状態である。
 もちろん日本においては、前述したとおり、昔も今も、その試みは全くといって為されていないに等しい。
 そんな中で、平成仮面ライダーシリーズだけが、(基本的には子供向けの特撮番組であるにもかかわらず)そのフォーマットの制限をものともせず、多重プロットによるモジュラー型ドラマを繰り返し作ってきたことは、驚嘆に値する。そのチャレンジ精神と、それによって生み出された豊かなドラマは、どれほど高く評価しても足りないだろう。
 ここまで振り返ってきたように、グランドホテル形式、もしくはモジュラー型の多重プロット構造は、複数の視点を持ち込むことで、多くのキャラクターを掘り下げて描き、ドラマを重層化し、テーマを明確化することができるという特長を持っている。
『仮面ライダー』のメインターゲットである子どもたちが、『555』を見ることによって、多重プロットのおもしろさに触れ、影響されたとしたら、遠くない将来、日本でも、かつてのアメリカのように、ありとあらゆるサブジャンルのドラマが多重プロットを採用する日が来るかもしれない。
 そんな、日本のテレビドラマの(アメリカでの呼称に倣って言えば)「第二の黄金時代」が来ることを夢想しつつ、筆を置きたい。

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